この本は<僕たちの宝物になりました。そして同時に、「こういう漫画が描きたい!」と強く思いました>と、藤子不二雄A(安孫子素雄)は回想している(『夢追い漫画家60年』)。一方の藤子・F・不二雄(藤本弘)は、<少年時代のぼくにとって、手塚先生の作品はどれもがバイブル(聖書いちばん大切な本のこと)でした。手に入らないものは、一生懸命にかきうつしたものです。そこで、手塚先生のいろいろな表現法を学んだのです>と記している(『藤子・F・不二雄のまんが技法』)。「バイブル」の一つに『新宝島』があったことはいうまでもない。
代表作『鉄腕アトム』は初期に路線変更した
デビューを果たし、若くしてヒット作も出した手塚は、1950年代はじめからマンガ家として急成長していく。加藤謙一に見出され「ジャングル大帝」を『漫画少年』に発表した(1950年連載開始)。同時期には、光文社『少年』で「鉄腕アトム」の連載開始(1952)、講談社『少女クラブ』では「リボンの騎士」の連載をはじめている(1953)。さらに1954年、自らライフワークと位置づけた「火の鳥」を『漫画少年』で開始するのだった。
そのどれもが彼の代表作になった。「アトム」は元々、『少年』に連載された「アトム大使」(1951)の脇役だったが、翌年から主人公となり「鉄腕アトム」へ発展したのである。編集部では少年を主人公とした科学マンガを載せたいとの誌面構想があり、手塚が適任とされ依頼となった。手塚はアトムの顔やコスチュームを60種類くらい描き、そのなかから1点が選ばれた。「少年たちが真似ても、そっくりに描けるようなもの」が選定の基準だったという(当時の担当編集者・金井武志の回想「鉄腕アトム」、竹内オサム『手塚治虫』より)。
当初、「アトム大使」のときのアトムは人間的な感情のないロボットで、争い合う宇宙人と人間をなだめる「大使」として活動したが、人気が出なかったことから路線変更、少年たちの仲間にもなれる人間らしいキャラクターとして再生する。父母やコバルト(マンガでは弟)、ウラン(妹)の設定もこのとき生まれた。これらが長期連載への道をひらいたのである。