マンガに囲まれていた手塚は、小学校低学年の頃から見よう見まねでマンガを描きだす。やってみるとたちまち虜になり、日々描く練習に励んだ。5年生の頃、ノート1冊分のマンガを描いてクラスの友人に回覧、やがて先生にも手塚のマンガ描きは知られるようになった。

18歳でデビュー後、大阪大学医学部に合格

戦後になってまもない1946年(昭和21)、手塚は『少国民新聞』大阪版(のちの『毎日小学生新聞』関西版)に掲載された4コマまんが「マアチャンの日記帳」)でデビューする。家の隣に毎日新間印刷局勤務の女性がおり、その紹介で持ち込んだのがきっかけだった。『少国民新聞』は海野十三のSF小説「火星兵団」を載せたこともある当時の有力な子ども向け新聞で、採用はすぐ決まった。一度持ち込みに失敗しており、<幸運だったと言うほかない>と彼は当時を回想している(『ぼくはマンガ家』)。掲載は1月4日〜3月31日、手塚18歳である。

デビュー翌1947年、酒井七馬原作の長編マンガ(単行本)『新宝島』を刊行、版を重ねて40万部へ達するまでとなる。当時としては驚異的なヒット作に成長し、マンガ家手塚の存在感は一気に上がった。そしてこの年、大阪大学医学部(当時は大阪大学附属医学専門部)へ入学。手塚は医者になるための勉学とマンガ描きという、二足の草鞋を履いていたことになる。

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手塚の『新宝島』が後進のマンガ家を生んだ

『新宝島』は後代のマンガ家に大きな影響を与えた。赤塚不二夫や石ノ森章太郎は『新宝島』との出会いがマンガ家になる縁をつくったと証言しているが、ふたりが『新宝島』に新鮮な驚きを覚えたのは小学生のときである。

藤子不二雄も『新宝島』体験を、マンガ家になるための決定的なきっかけだったと後年、繰り返し証言している。二人はすでにデビュー時の手塚に注目しており、「マアチャンの日記帳」を読みたくて、高校生ながら少国民新聞を購読していた。それもあって、『新宝島』が刊行されるやいなや本屋で買い求め、二人で読みだした。初見のときの驚きは、<これは映画だ。紙に描かれた映画だ。いや! まてよ。やっぱりこれは映画じゃない。それじゃ、いったいこれはナンダ⁉>であった(藤子不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』)。場面展開に映画的なスピードがあり、彼らはそこに「新しさ」を認めたのだ。