『リボンの騎士』は手塚による「少女漫画」
「リボンの騎士」は『少女クラブ』編集長の牧野武朗が手塚に依頼してはじまった。宝塚歌劇団の芝居から着想を得ており、加えて、バレエ映画『ホフマン物語』もコスチュームや物語展開のなかで参考にされた。「リボンの騎士」は少女向けストーリーマンガの先駆的作品として名高く、後代への影響も大きい。
連載の仕事が入りだした手塚は1952年に東京へ居を移し、まず四谷に下宿、翌1953年からは都内豊島区の伝説的なアパート「トキワ荘」に暮らした。そこには手塚を慕う新人マンガ家たちが集まってくる。「オバケのQ太郎」「ドラえもん」の藤子不二雄、「おそ松くん」「天才バカボン」の赤塚不二夫、「仮面ライダー」「サイボーグ009」の石ノ森章太郎など、のちにマンガ・アニメ界を牽引する作者が顔を揃えたのだ。
他の漫画家をプロデュースし、次々に育成
彼らは新漫画党というグループを結成した。リーダー格は寺田ヒロオ(のち「背番号0」『スポーツマン佐助』)。『漫画少年』で投稿原稿を選評する「漫画つうしんぼ」を担当しており、先輩として「トキワ荘」に暮らす若手マンガ家たちの面倒をよく見た。なお、手塚自身はトキワ荘に1年半ほどしか住んでいない(1954年10月まで)。その間も、関西に居たり、他所で缶詰になっていたりで、寝泊まりしていた期間は意外に短い。
その手塚治虫は、各誌で大作を手がける充実の時期を迎える一方、『漫画少年』で批評担当を任じ、投稿してくる描き手を応援育成した。ほかにも、「兄貴格」として、新人の発掘登用に努めた逸話は数多くある。
うしおそうじは、働いていた東宝を辞めて赤本マンガや少年誌で作品を発表しだしたが、手塚はその才能を早くも見抜き、『漫画少年』の編集者を伴ってうしお宅を訪問、「チョウチョウ交響曲」誕生に一役買った。1952年の掲載となった同作はうしおの代表作となり、『漫画少年』の読者獲得に力をもたらした。