やなせの妻が「手のひら」を発見したわけではない

『日本童謡事典』(上笙一郎編、東京堂出版)は、「手のひらを太陽に」と同題のやなせの随筆からとして、こう引用している。

厭世的な気分に追い込まれた時のことです。暗いところで懐中電灯で冷たい手を暖めながら仕事をしていました。ふと電球を手のひらにあててすかして見ると、真っ赤な血が見える! 自分は生きているんだという再発見と、その喜びを謳歌してがんばらなくちゃ! と自らを励ますためにこの詞を作りました。

ドラマと違うのは、のぶ(今田美桜)のモデルである妻・暢(のぶ)さんが最初に懐中電灯に手をかざし血管が透けると発見したわけではなかったこと。また、やなせは『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)には、こう書いている。

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一九六二年、ぼくは佐野さんに頼まれてニュースショーの構成をしました。司会に宮城まり子。そしてぼくが作詞し、作曲をいずみたくに依頼したのが「手のひらを太陽に」です。

テレビ番組の「今月の歌」という企画だった

佐野さんというのは、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の佐野和彦プロデューサー。のちに「徹子の部屋」のチーフプロデューサーになる人物だ。やなせは、人材が足りない開局直後のテレビ各局に引っ張りだこで、企画も出演も担っていた。

つまり歌手・女優の宮城まり子が司会する朝の番組で「今月の歌」という企画があり、その企画ありきで「手のひらを太陽に」が誕生したということだ。ドラマのように、自然発生的に歌がクリエイトされたわけではない。やなせは「現在、ぼくが作詞した歌の中で一番多く歌われているのは『手のひらを太陽に』だが、作曲はいずみ・たくで、最初に歌ったのは宮城まり子である。今ではこのことは意外に知られていない」(『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)とも書いている。

宮城まり子は当時35歳。社会福祉家の先駆けであり、ねむの木学園を創設した人物として有名だが、もともとは一世を風靡した芸能人。22歳の時「なやましブギ」で歌手デビューして以来、コケティッシュな魅力で男性からの人気があった。