宮城まり子をプロデュースする立場になった
『アンパンマンの遺書』によれば、雑誌『漫画読売』の仕事で、やなせが宮城にインタビューをしたことがあり、その後、宮城から直接電話がかかってきたのだという。
「やなせさん、お願いしたいことがあるんや。きてくれへんか。クルマをまわすからうちへきてほしいんや」
まり子さんは独得の甘えるような声で言ったので、ぼくはたちまちフラッとしてしまった。
宮城の自宅に招かれたやなせは、宮城の最初のリサイタルの構成を頼まれた。やなせは困ったものの「メロメロ状態のぼくは、構成というのはなんだか解らないままひきうけてしまった」。
結果的にそのコンサートは成功し、宮城のファンである作家の高見順らも感動して拍手を贈り、「ぼくはそれからも彼女のステージの構成をしたり、ホンを書いたり、たまには巡業にくっついて行ったりと、すっかりまり子オタクみたいなことをやっていた」という(『アンパンマンの遺書』)。
宮城といずみたくを引き合わせたのも、やなせであり、そうして「手のひらを太陽に」はテレビで宮城が歌うことになった。「あんぱん」では宮城に該当する白鳥玉恵役をアイドルグループ・乃木坂46の“歌うま”メンバー、久保史緒里が演じ、歌唱を披露する。
「手のひらを太陽に」は戦後にできた唱歌の傑作
宮城は「手のひらを太陽に」を初めて歌ったとき、「ぼくらはみんな生きている」という歌詞に合わせて、帽子にズボン姿だった。曲の持つ普遍性を感じ「これは(中略)私一人だけの歌とは違う。みんなが歌うようになるよ、と思った」という。
その言葉どおり、発表と同じ1962年、NHKの番組「みんなのうた」でも宮城が少年コーラスと共に歌い、65年、男性コーラスグループのボニージャックスが歌ってレコードを発売。年末の「NHK紅白歌合戦」でも彼らが歌うとそこで初めて大きく話題になった。ボニージャックスのリーダー、玉田元康は歌の魅力をこう分析している。