「地球の仲間と友達だ、的な歌はよくあるが、頭で書いている感じだと好きになれない。この歌は自然で、単純だけど説得力がある。戦後にできた子どもの歌の傑作です」(読売新聞文化部『唱歌・童謡ものがたり』岩波現代文庫)

『日本童謡事典』も「〈生きていること〉の喜びを真直(まっすぐ)にうたい上げた詩で、陰翳(いんえい)ある表現によらず、幼児にもわかる日常の言葉で技巧を用いず書かれており、理解しやすい」と高く評価している。

「最初はアメンボではなくナメクジだった」

こうして「手のひらを太陽に」で、やなせたかしの詩人としての力が広く認められたわけだが、あまり知られていないエピソードもある。

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一番の歌詞は、小さな動物たちも人間と同じように生きていると歌い、「みみず」「おけら」「あめんぼ」を挙げているが、最初は「あめんぼ」ではなかったという話だ。保育士の業界雑誌『ちいさいなかま』2010年8月号、埼玉大学教育学部・岩川直樹教授の寄稿にこうある。

やなせたかしさんの「手のひらを太陽に」といううたの「ミミズだって、オケラだって」の後に続くのは、もとは「アメンボ」ではなく「ナメクジ」だったそうだ。それが誰かの意向で変えられたことを、からだとことばの探求者である竹内敏晴さんのレッスンのなかで、初めて聞いた。

竹内は演出家であり、やなせと同時代に活動していたので、2人の間には接点があり、竹内はやなせからこの逸話を聞いたのかもしれない。伝聞でしかないが、曲の誕生にテレビ番組が絡んでいたこともあり、いかにもありえそうな話だ。岩川教授はこうも書く。

「やなせさんの、そして竹内さんの、きれいごとではない生の肯定力のようなものを感じた。アメンボにしたからこそ広く歌われたのだろうが、ナメクジのままのほうが深さを保てただろう」

なぜ「ナメクジ」をチョイスしたのか?

やなせがこの歌詞を書いたのは、勤めていた三越宣伝部を辞め、漫画家に専念しようと思ったが、40代になってもこれといったヒット作を出せず、前出のように「厭世的な気分に追い込まれた」時だった。その文章の前には「心身ともに疲れきって自殺したいぐらい」だったとも書いている。仕事はテレビなど華やかなものも含め依頼されたが、自分の目標がはっきりしていなかった。そんな気持ちから最初は「ナメクジ」をチョイスしたのかもしれない。