各師団の兵士は20日分の糧食を持参するだけで、それ以上の補給を期待しても、制空権がイギリス側にあるうえに、ビルマ方面軍の制空を担う第5飛行師団の航空兵力はわずか200機にすぎず、イギリス軍の5分の1から6分の1ていどだったから、とても空輸の能力などなかったのである。

 そのために牟田口は、牛、馬、羊などに頼り、輸送と食糧の両面をこうした家畜類ですますよう命じていた。しかし、山岳地域で牛や馬は輸送の役目を果たせず、次つぎに死んでいった。

 20日間という作戦計画は、こうした条件のもとで練られたのである。いってみれば、靴に合わせて足の大きさを調整しろ、服に合わせて身体をつくりかえろ、というに等しかった。

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インパール作戦で行軍する日本兵 ©時事通信社

3人の師団長と牟田口の対立

 しかも不幸なことに、牟田口がひたすら猪突猛進型の軍人なのに対し、3人の師団長はいずれも理性派、あるいは合理主義的発想を身につけている軍人だった。第33師団の師団長・柳田元三は陸大在学時から合理主義的発想を好むタイプとして知られ、空虚な精神論を侮蔑していた。

 第15師団長の山内正文は、昭和初年代にアメリカの陸大に留学を命じられ、そこを最優秀の成績で卒業しているし、昭和10年代にはアメリカで駐在武官をつとめ、アメリカ軍の事情にも精通していた。山内も牟田口のようなタイプを軽侮していた。さらに第31師団長の佐藤幸徳は、インパール作戦そのものに不信感をもち、補給も十分でない状態で兵士を戦線に送りだすことはできないと主張していた。兵士思いの師団長として下僚に慕われていた。

 牟田口は3人の師団長がよほど煙たかったのか、1月に各師団に作戦計画を示達するときに、3人の師団長を第15軍司令部に呼ばずに参謀長や作戦参謀だけを呼んで命令を下した。

 3人の師団長はとくべつに打ち合わせをしていたわけではなかったが、ともに牟田口に対して反感をなおのこと強くもつにいたった。これが作戦開始後に抗命、罷免、更迭といった事態を生むことになった。

 3人の師団長と牟田口の対立は、昭和陸軍の根本的な問題を露出していた。それは精神論と合理主義的分析の対立という側面と、高級指揮官がひとたび理知や知性を失ったらどうなるかを示すケースともいえたのだ。