雨期の前にインパールを占領するなど、まったく不可能だった。日本軍の部隊は、ときにイギリス軍に向かって肉弾突撃を行うこともあったが、それは作戦命令を実行するというていどの意味でしかなかった。
あまりに悲惨な状況下で発狂する兵士が続出
7月15日に、日本軍に撤退命令がだされた。作戦は失敗だったのである。こんどは兵士たちは雨にぬれ、イギリス軍の銃弾に追われ、食糧もなく、すすんできた道を戻らなければならなかった。高級指揮官の独断と錯誤がどれだけ兵士たちに過酷な運命を強いたか、それがやはり今一度問われなければならない。
これまで私は、インパール作戦(「ウ号作戦」)に従軍した兵士たち10人近くに話を聞いてきたが、彼らは、6月の梅雨時になると、雨期の戦場を思いだし、一様にゆううつな感情に捉われると話している。10年、20年、そして50年をはるかに過ぎた今も、その感情から逃れることはできない。
いや平成10年(1998年)の現在(※編注:書籍発刊当時)では、かつて20代であった兵士たちも70代後半から80代半ばになっているが、6月はゆううつな感情だけでなく、涙と怒りの感情が浮かび上がってくるとさえいう者もいる。
実際に雨期に入った5月以降、インパール作戦は悲惨な状況にあった。9月までの間、ビルマ西北部とインドのマニプール州(インパールはこの州の首都)一帯の山岳地帯には終日雨が降りつづく。「止むことを知らないビルマの悪天候」という表現があるが、この地帯はまさにそうであった。
この雨期のなかで飢餓、マラリア、そして不十分な戦備の兵士たちは、英印軍の攻撃に耐え、ひたすら自らが身を隠すことのできるタコ壺にひそんで、戦闘を行い倒れていったのだ。タコ壺に入ってくる泥水をはねのけながらの戦いだった。
飢餓で倒れ、やがて短時日のうちに白骨化していく兵士たちがそこかしこにみられるようになり、それに雨が無情に降りそそぐという光景は、明日の自らの姿であると思われて、兵士たちを脅えさせた。
あまりにも悲惨な状況に置かれている自らの姿に、精神のバランスを崩してしまう将兵もまた多かった。雨にうたれながら、母親の姿を求め、あるいは家族の名を叫びつづけ、なんの助けを求めることにもならないにもかかわらず、ジャングルのなかを異様な視線で歩き回る兵士たちの姿は珍しくはなくなっていったのである。
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