第2次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」。第15軍司令官としてインパール作戦を主導した牟田口廉也(むたぐちれんや)中将の杜撰な作戦計画とは、どのような内容だったのだろうか?
ここでは、ノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『昭和陸軍の研究 下』(朝日文庫)より、一部を抜粋して紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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杜撰すぎる作戦計画
牟田口の作戦計画がいかに杜撰であったかは、作戦行動に移ってからすぐに露呈する。
杜撰な例の1つは、北ビルマからインパールに向かう進撃地域が山系、峡谷、高地ばかりだったことで、兵士たちは標高3000メートルの山々をひたすら登り降りしながらすすまなければならない。この地形は牟田口や参謀たちの予想をはるかに超えていた。
しかもチンドウィン河からインパールの距離を、たとえば第15師団は約70キロ、第31師団は約100キロ、第33師団も約100キロと想定していたが、これは平地の実測に等しく、山系や峡谷を登り降りする距離のそれこそ10分の1ていどになるのではないかと思われるほど甘い計算だった。
行動開始日をもってチンドウィン河をわたるというが、その河幅は600メートル、流水部の河幅でも300メートル、水深は3メートルもある。しかも河岸は急斜面で、対岸もそれに輪をかけての急斜面だった。
インパール作戦に加わった部隊長の私家版の書には、船の配当もないので、「部隊自ら研究して現地筏(いかだ)を作製し、あるいは現地民の使用する独木舟(まるきぶね)を蒐集する等渡河材料の整備には相当苦心した」と書かれているほどだ。しかもイギリス軍の偵察機が飛来する合間を縫っての渡河であった。
杜撰のもう1つの例は、戦備が著しく貧弱だったことだ。車両部隊など第15軍の参謀が要求した戦備の1割ていどがビルマ方面軍から認められたにすぎない。英印軍の戦力を著しく過小評価していたのである。
そしてこれがもっとも重要であったが、補給についてはほとんど考慮が払われなかったことだ。



