奇襲作戦は英軍に見抜かれていた
陸士58期生で、戦後は防衛研修所戦史室部員だった前原透の著した『日本陸軍用兵思想史』(私家版)は、インパール作戦について次のように書いている。これがもっとも妥当性をもった分析ではないかと、私には思える。
「攻勢に依らねばビルマ防衛は成立しない、との思い込みと、太平洋正面の敗北を他の方面で回復したいとの願望、さらに、これに成算ありとする牟田口廉也第15軍司令官の独善的構想に、一部の兵站(へいたん)の関係者からその攻勢作戦の成立を危惧する論もあったが、上司の河辺正3方面軍司令官、寺内寿一(ひさいち)南方総軍司令官がその作戦に賛成し、作戦発起となった」
「第15軍の作戦計画は、約50年前(保阪注・日清戦争)の平壌の攻撃と似ているが、昭和初期以来の用兵教義に基づく包囲殲滅を企図するものである。3個師団の軍のうち、2個師団が3週間分の食料弾薬を背負って山中を突進するという奇襲、急襲の効果を期待するもので、それ以後の食料補給は敵のものを鹵獲(ろかく)することをあてにしていた」
「英軍は日本軍の進行企図をすでに察し、第一線兵力を後退させ、自分の戦い易い戦場に日本軍を導入する作戦をとった。攻撃・攻撃主義で凝り固まった日本軍には全く予期しなかった敵将の対応であった」
「軍司令官の意図通りに山中を突進し、目標コヒマを占領し、敵の反撃に耐えていた第31師団長(注・佐藤幸徳)は、その後の軍からの補給皆無に激怒し、止まって戦えとの命令を無視し食料のある場所へと独断退却し、解任された。止まって戦えば『玉砕』しかない。玉砕は敗戦でわが信念に反すると、師団長は公言した。南から進んだ第33師団長(注・柳田元三)は作戦発起後間もなく、作戦中止を上申して解任され、中央からインパールに向かった第15師団長(注・山内正文)は病気で解任され、帝国陸軍として前代未聞の作戦となった」
軍事研究者の目からみたこの批判は、インパール作戦の本質をよく示している。表面的な作戦の進行を見ると、「烈」と「祭」はチンドウィン河をわたり、「烈」はコヒマを制圧した(4月5日)。
「祭」は3月の終わりにはインパールの北部にまですすんだ。だがこれはイギリス軍が予測していたことで、イギリス軍は兵力をすべてインパール一帯に後退させていて、日本軍の補給が切れたときに反撃に転じようとしていたのである。実際にインパール一帯で戦闘が始まると、日本軍は食糧も弾薬もすぐに尽きはて、どこの戦場でもイギリス軍に攻撃されるままになった。



