漫画ブームのおかげで、嵩の仕事はどんどん増えた。やがて漫画家としての収入が三越の給料の三倍を超え、独立を考えるようになる。上京六年目の一九五三(昭和二十八)年のことで、嵩は三十四歳になっていた。

 このころ嵩と暢は、四谷の荒木町に住んでいた。戦後のインフレの中、夫婦共働きで懸命に貯金をし、四十二坪の借地に小さな家を建てたのだ。そのため住むところについては心配なかったが、定収入のない暮らしになるのはやはり不安だった。

 そんな嵩の背中を押したのは、このときも暢だった。

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「会社、辞めなさいよ、なんとかなるわ。もし仕事がなければ、私が食べさせてあげる」

 そう言われて嵩は辞表を出したが、そこから先は甘くなかった。待っていたのは、人生最大の挫折である。

いつしか中途半端な存在に……

やなせたかしさん。©文藝春秋

 注文はたくさんあって生活には困らなかった。暢も仕事を辞めて家にいるようになった。だがこれという作品が描けず、ヒット作が出ない。年下の漫画家が売れていく中、嵩だけが無名のままだった。漫画界は世代交代が進み、大御所でもなく若手でもない嵩は中途半端な存在になっていた。

 ほんとうは心細かったが、気取り屋のところがある嵩は、小さな黒板を買ってスケジュールを書き込み、忙しいふりをした。

『月刊高知』の経験を生かして、イラストや漫画ルポ、コラムや有名人のインタビュー記事なども手がけていたので、実際に締切りはたくさんあった。だがひとつひとつは小さな仕事で、雑誌の中で埋もれてしまっていた。

 何でもできる器用さと、頼まれたら断れない性格で「困ったときのやなせさん」といわれ、大物漫画家の原稿が間に合わなかったときに、ページを埋める漫画を短時間で描いたりもした。「助かりました! 今度、もっといい仕事を回しますから」と編集者に言われて待っていても、実現したことは一度もなかった。

 方向性はさだまらず、自分らしさとは何かわからなくなっていく。頼りになる相棒である暢も、こればかりはどうしようもできなかった。