会いにきてくれた友達とのごくふつうの会話や、鍼灸師の友人による深い癒やしが石井さんの光になった。「大丈夫だよ」と声をかけられるより、鍼灸師の友人が語りかけた「かわいそうに」という言葉が、石井さんを癒やした。彼のひと言から石井さんは慈しみを受け取り、「自分は大丈夫だ」と無理して強がることから解放された。
自身が思うよりずっと、石井さんは他者から愛され、必要とされる存在だったのだ。
だんだんと35日間の全容が見えてくる。発病と性格を関連づけて堂々巡りの自問自答に苦しんだが、そのもっとも苦しいときに、病室の人たちや友達からの溢れんばかりのやさしさを寄せられた。海辺に育ちセラピーの技術を持つ石井さんは、身体性と心のつながりを知っていた。それらが支えとなって、すっかり感情を出し切るころに、他者を信用しないという考え方の癖をきれいに手放したのではないか。
けれど、石井さんの失明は家族の未来設計に変更を迫った。第一に石井さんの収入が途絶える。3歳と生後4カ月のこども二人のお世話は妻・朋美さんひとりの肩にのしかかる。加えて石井さんも「手のかかる存在」になった。
「妻の足手まといになるんじゃないか」
「実際、妻の足手まといになるんじゃないかと思ったこともあります」
と石井さんは打ち明けた。
朋美さんが看護職という幸運は家族の危機に支柱となった。朋美さんは病気への専門知識をもとに、現実を受け止めた。
一方で問題は続く。家族で暮らしていたアパートが家主の都合で立ち退きを迫られていた。これを機に夫婦は館山市にある石井さんの実家に引っ越しをする。二世帯住宅になっていて家賃はかからない。ここで生活の基盤を整えることを選んだ。
そんななか、障害者手帳を取得し、障害者年金の受給を始めたことは新しい一歩となる。
「経済の基盤はとても大事です。ベーシックインカムを確保できたことは次の行動につながったと思います」
障害年金の受給資格は、年金をきちんと納めていたかや、障害について初めて受診した日の正確な申請ができるかなど、要件が厳しく定められている。石井さんは要件を揃えられたことで障害者年金の受給が可能になった。