なぜ男は女へのレイプを「芸術」と呼びたがるのか

これまで国内外のさまざまな映画や小説の中で、必要もないレイプシーンが盛り込まれることは少なくない。なぜ男性の監督や俳優といったクリエイター・アーティストの中には、女性に対する性暴力を「芸術的表現」として美化する者がいるのか。

パルー監督にこの質問を投げかけると、次のような回答が返って来た。

「フランス映画業界では、暴力的なアーティストに対する崇拝的な賞賛や、常識に反する(レイプシーンのような)行動に対する、ある種の敬意が存在しています」

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これこそが核心なのだろう。「天才」の暴力は「芸術」として正当化され、被害者の声は「芸術への冒瀆」として封殺される。ベルトルッチは「偶然性」「即興性」「生の感情」といった美辞麗句で自分の行為を正当化した。しかし、それは19歳の少女としてみれば単に性暴力を受けたことにほかならなかった。

世代間で分かれる受け止め方

この問題は、世代間の価値観の違いも表している。フランス名優ブリジット・バルドーが先日、フランスのニュース専門局「BFMTV」のインタビューで注目すべき発言をしていた。ドパルデュー擁護派の彼女は、フェミニズムについて「私の趣味に合っていない。私は男性が好き」と一蹴。現代映画については「醜いし、夢を見させるものでない」と断罪した。

この姿勢は、#MeToo運動の初期にカトリーヌ・ドヌーヴらが取った反応を思い起こさせる。2018年、ドヌーヴは「男性が女性を口説く自由を奪うな」という趣旨の公開書簡に署名し、大きな議論を呼んだ。

一方で、若い世代のフランスの女優は、こうした「古い価値観」に真っ向から異議を唱えている。これは単純な世代論ではなく、社会の根本的な価値観の転換点を物語っている。

50年前の告発が現代に響く理由

マリアは「虐待を告発した最初の女優の一人」だった。1970年代から彼女は一貫して映画業界の女性差別を告発していた。