「執筆をしながら何度も考えたのは、日本人にとってお米って何だろう? ということでした」
米の価格が例年の二倍以上となり、家計を直撃した2025年。門井慶喜さんの『天下の値段 享保のデリバティブ』は、江戸時代に全国の米の価格を決めていた、大坂・堂島米市場を舞台にした長編小説だ。
「どんな時代でも、日本における米の存在感は特別で、かつて歌人の石川啄木は、貧乏の中で一番心に堪えたのは、米びつが空っぽであることだと語っていました。米がない恐怖は日本人の心理に根付いているんですね。あるとき、この米価が江戸時代にはすでに先物取引で決まっていたと知り、興味をひかれました。今まで自然科学や人文科学をモチーフに書いてきましたが、初めて社会科学である金融の分野に挑んでみようと思ったのです」
世界初の組織的なデリバティブ市場ともいわれる堂島は、米の現物ではなく、一種の「指数」を用いた、帳合米(ちょうあいまい)という方法で米の取引をしていた。しかし、米に関する政策を多く実施し、後に米将軍とも呼ばれた8代将軍徳川吉宗をはじめとする幕閣は、それを苦々しく思っていた。
「当時、武士の給料はお米で支払われていたわけです。それをお金に換えるから、米の価格は収入に直結する重大事でした。ところがその価格を、武士ではない商人が決めている。しかも、現物を扱わない取引です。これは江戸の武士には不実なものとして許せなかったでしょう」
