理想の最期について聞く「私の『大往生』」。最終回は元首相の細川護熙氏。認知症を患った佳代子夫人の介護をしながら、87歳になった今も作陶等作家活動を続ける。「足跡を消して逝きたい」と語る細川氏の最期の願いとは?
熊本県知事、第79代内閣総理大臣を経て、還暦で政界を引退。現在は作陶、水墨画などを手掛けるアーティストとして活動する細川護熙氏。そんな華々しい経歴をよそに、「足跡を消して逝きたい」と語る細川氏の“最期の美学”とは。
死のうは一定
『徒然草』を書いた吉田兼好さんは「死は前よりしも来らず、かねてうしろに迫る」と言っていますが、人生を振り返ってみれば、私の若い頃からの一番の関心事は、この限りある人生をどう生きるかということでした。
織田信長が好んだとされる、「死のうは一定、しのび草には何をしようぞ、一定語りおこすよの」という小唄にも強く惹かれました。「死のうは一定」とは、「人間はいつか死ぬ」ということ。たった一度きりのかけがえのない人生なら、小さなことにくよくよしたって仕方ない。どうせなら何事も思い切りよく、大輪の打ち上げ花火みたいに威勢よくドーンとやっていこう。そんな思いでここまでやってきました。
3歳で母を亡くして…少年時代は「異風者」
恋をするなら素晴らしい恋をしたい。何か燃えたぎる思いがあれば、どんな困難にぶち当たってもやり遂げるという気概でぶつかっていく。そうすれば、自分自身の人生、世界が拓けていくはずだと。
私は3歳で母を亡くしています。当時の記憶はもちろんないのですが、母の臨終の時、離れた部屋で寝ていた私と弟はだいぶ、うなされていたそうです。そんな母の死の影響もあってか、私はいささか屈折した少年時代を過ごしました。熊本には一風変わった頑固者を表す「異風者」という言葉がありますが、まさにそれでした。
カトリックの中学校に通っていましたが、雨の日は勝手に休校と決め込んで講談本を読み耽っていたので成績はいつもビリ。中学2年生で落第させられ、1歳年下の弟と同学年になりました。さらに3年生の時、社会科の試験で「港町の発展の条件は」という設問にデカデカと「ストリップ劇場」と書いたのが神父さんたちの怒りを買い、ついに「君はこの学校にふさわしくない」と放校されました。
そんな“問題児”だった中学時代の私に大きな影響を与えてくださったのが、木曽秀観先生という英文学者でした。
〈この続きでは、木曽先生との出会いと人生観や死生観に与えた影響、政治家を志すきっかけとなった伯父・近衛文隆の訃報、認知症となった妻の介護、現在の湯河原での生活などをじっくり語っている〉
「週刊文春 電子版」では、私の「大往生」連続インタビューをすべてご覧になれます。






