そう思った祐子は早速その本を読み始めた。日航機事故が起きたとき、祐子はまだ16歳の高校生だった。それでも日航機事故のことは、連日テレビや新聞で大きく報道されていたので、大体知っているつもりになっていた。ところが、邦子の手記を読み進むにつれて、事故がどれほど悲惨なものだったのか、遺族のその後の人生がどのように大変なものだったかなど、肝腎なことは何も知らなかったことに気づかされた。
とりわけ母親である邦子が亡き子に会いたい思いから、御巣鷹山に度々登っては墓標に思い出の鯉のぼりを立てたり、山でわが子を思う詩を詠んだり、さらには遺族同士の交流のなかで心を支えるものを見出したりする場面では、祐子は胸を揺さぶられるような感情の昂(たか)ぶりを感じた。
この時、事故から30年近い歳月が過ぎていた。
《美谷島さんは、どうやって生きなおすことができたのだろう。どうやって30年近い年月を生き抜いてこられたのだろう。自分も御巣鷹山に慰霊登山をしたい。美谷島さんに会って話を聞きたい》
祐子の心のなかに、そんな思いが沸々と湧いてきた。
それでも遠慮する気持ちから、邦子に電話をする勇気が出ないまま、1年が過ぎてしまった。2015年の夏が近づいた頃、祐子は何度も取材を受けていたNHK仙台放送局のプロデューサー大野太輔(だいすけ)に、「御巣鷹山に登りたいが、どうすればよいか」と相談すると、大野は「案内してあげますから、一緒に登りましょうよ」と約束してくれた。
この年8月2日、祐子は大野の案内で御巣鷹の尾根への慰霊登山をした。8月12日より10日も前だったので、慰霊に訪れる人は少なく、山は静かだった。葛折りの狭くて急な登山道をゆっくりと踏みしめて登るにつれて、山を包む静謐な空気に、祐子は閉じていた心が次第に開放されていくように感じた。
※本記事の全文(約1万1000字)は、月刊文藝春秋のウェブメディア『文藝春秋PLUS』に掲載されています(柳田邦男「御巣鷹『和解の山』 第1回」)。全文では、下記の内容をお読みいただけます。
喪失体験者のなかから
恩讐を超えて
生きなおす力
尾根高く舞うシャボン玉
〈第1話〉閖上の記憶
運命を分けた足の速さ
亡き子らの名を刻もう
心療内科医のサポート
「記憶」を見つめる意味
1冊の本の衝撃
歩いて行ける天国

