「御巣鷹山は“やさしい山”になりました」
第3話 300万段の階段を越えて
東京・港区の高層マンションの12階に住む市川正子は、エレベーターが怖くて乗れないので、階段を歩いて昇り降りしなければならない。12階ともなると、階段の段数は半端ではない。264段ある。一度外出すると、昇り降りで528段になる。しかも夏は、密閉された階段空間は気温が30度以上になる。それでも仕事に社会活動に、外出しない日はないくらいだ。
なぜエレベーターが怖くて乗れないのか。16歳だった息子がエレベーターから降りようとした時、突然エレベーターが扉を開けたまま上昇したため、エレベーターの床と外枠にはさまれて圧死するという悲惨な事故を経験し、そのショックが心に消えることのない母親ならではの深い傷(トラウマ)を残したからだ。エレベーターに乗ろうとすると、息子の最期の場面が甦ってしまう。
2006年6月3日のことだった。都立小山台高校2年だった市川大輔(ひろすけ)が、野球部の部活を終えて下校し、通学用の自転車とともにマンションの12階でエレベーターから降りようとした瞬間、突然エレベーターが扉を開けたまま急上昇したのだ。
日常の生活空間の中でこんなことが起こるとは、正子にとって信じ難いことだった。正子は、居たたまれない気持ちになって、警視庁や国土交通省や消費者庁を訪ねて、説明を求めた。その頃は、電車やバスに乗るのも怖かったので、マンションの階段の昇り降りだけでなく、港区浜松町駅近くのマンションから霞が関まで歩いて往復した。だが、どの関係機関も、エレベーター事故については航空事故や鉄道事故の場合のように、事故原因を背景要因まで含めて調査・分析するという取り組みをする制度にはなっていないことがわかっただけだった。
「つながり」の始まり
そんな月日が過ぎる中で、正子は、《事故や災害で大事な家族の命を奪われた人たちは、どうやって生きる支えを見つけているのだろう。直接会って聞いてみたい》と、しきりに思うようになった。
事故から1年近く経った時、相談を始めていた前川雄司弁護士から、「エレベーター事故のように、犠牲者が一人だけだと、遺族が孤立して気力を失いがちです。市川さんと同じように、女性一人で事故のない安全な社会をつくろうとしている方がいるのですが、お会いになってみませんか。踏切事故の遺族なのですが、事故の種類は違っていても、事故の犠牲者の遺族という点で、お互いの辛さや悲しみを本当に理解し合えるでしょうから、これから事故の原因究明や責任追及を進めていくうえで、力になると思うのです」と勧められた。
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source : 文藝春秋 2022年12月号