閖上のシャボン玉

御巣鷹「和解の山」 第2回

柳田 邦男 ノンフィクション作家
ニュース 社会
閖上から石巻へ。被災者は「あの山」でつながった

第1話 閖上の記憶(つづき)

「悲しみでつながる縁というのもあるのよ。そういうつながりのほうが、ほんとうに深いつながりかもしれないと思うの」

 美谷島(みやじま)邦子のこの言葉に、丹野祐子(たんのゆうこ)は津波で中学校1年生だった公太(こうた)を亡くして以来、ずっと心のなかに翳(かげ)りをもたらしていた乱れ雲がすーっと消えていくように感じた。悲しみが消えたのではない。逆だった。悲しみをありのままに直視できるようになったと言おうか。

《それにしても、美谷島さんはどのようにして30年という長い月日を生き、どのようにしてあのような言葉をやさしく他者(ひと)に言えるようになったのだろうか》

 祐子は直接邦子に会って、じっくりとこれまでの歩みを聞きたいと思った。手記『御巣鷹山と生きる』に、邦子は健ちゃんの遺体を確認したときのことを、感情を必死に抑えた文章で書いている。事故から5日後の8月17日、検視が行われている藤岡市の体育館でのことだ。

〈健の遺体は、その日に着ていたエメラルドグリーンのシャツにつけた、二㎝角のちびっこワッペン周辺の一部の胴体と右手だけ。その小さな手には、いぼがあり、私は、つめの形を見て、すぐに「健です」と確認した。その手は、ほんのりと温かかった。夫は、健の右手を握り「いつまでもいっしょだよ、もう一人ではないよ」と言った〉

 部分遺体の人物確認は困難を極めた。美谷島夫妻は年末まで何度も藤岡市に出かけては、棺の並ぶ遺体安置所で、心身共にふらふらになって法医学の専門家と共に棺の蓋を開けては、健ちゃんの一部かどうかの確認を繰り返した。そして、年の暮れも近いひどく寒い日、ようやく皮だけの右足と左足を確認して、荼毘にふしたのだ。

 健ちゃんは大阪の親戚に甲子園での高校野球観戦に招かれて羽田空港から一人旅に出発する時、見送りの母・邦子に、「ママ、1人で帰れる?」と言ったという。そんな母思いの9歳の子が、変わり果てた姿で帰ってくるとは。これほど苛酷な運命に襲われた母親は、一体どのようにして立ち直ることができたのか。

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柳田氏

生の声を聞きたい

 祐子は、「閖上(ゆりあげ)の記憶」の館長を務める小齋正義(こさいまさよし)や遺族の仲間たちに、「美谷島邦子さんに閖上に来て頂いて、直接話を聞く会を開きたい」と、自分の切実な思いを語った。

「閖上の記憶」は、活動を始めてから3年半ほど経っていたが、全国各地から調査や研究にやってくる人々に津波被害の実態を語るにしても、地元被災者の心の再生を支える活動にしても、暗中模索の状態で取り組んでいると言ってよい段階にあった。「地球のステージ」の若手ボランティアスタッフたちは、精力的に活動してくれるのだが、祐子をはじめ家族や家を失った人たちは、まだまだ喪失の悲しみや苦悩の真っ只中にいて、これからどう生きていけばよいのか、心の整理ができない日々だった。しかし語り部活動ひとつにしても、先行する人たちから学ぼうとする意識は、みな強かった。これに対し、日航機事故の遺族は、悲しみや苦しみをかかえて30年も生きてきたいわば「人生の先輩」と言うべき存在だ。自分たちは震災から「はや4年」という思いもあるが、日航機事故の遺族の辿った道程(みちのり)のことを思うと、「まだ4年」と言うべきかもしれない。そうであるなら、これからどう心を整理して生きたらよいのか、「人生の先輩」から学びたい――。

 そう語る祐子の提案に、仲間たちは賛同した。2015年の秋も過ぎようとしていた。

 祐子は、早速美谷島邦子に電話をかけ、悲しみに苦しんでいる遺族たちのために、ご自身の30年の歩みを語って頂けないかと頼んだ。とりわけ祐子自身が邦子の生(なま)の声を聞きたいと思っている心境も話した。これに対し、邦子は逆により積極的な会合の開き方を提案した。

「私は講演をお引き受けできますが、私1人の話だけで終わるのでなく、他の地域の震災被災者や事故の被害者にも来て頂いて、閖上の被災者とじっくりと語り合う場を設けたほうがよいのではないでしょうか。被災者・被害者の悲しみや苦しみは、一人ひとり微妙に違うので、いろいろな人の話を聞いたり、話し合ったりするなかで、それぞれに何かをつかむことができると思うのです」

 祐子にとって納得できる提案だった。やはり30年の経過のなかで、様々な事故や災害の被害者・被災者と交流を重ねて来た人ならではの気づきだと思った。

 年が変わり、大震災から5年の日も近い2016年2月13日と14日の2日間、「閖上の記憶」のプレハブ建屋内で、遺族たちとスタッフたちがこれからの活動のあり方を考えるための研修と、遺族一人ひとりがそれぞれの心を見つめ直す会合が開かれた。

 その初日昼前に、邦子は日航機事故遺族の小澤紀美と橋本毅の2人とともに「閖上の記憶」に着いた。紀美は事故で夫の命が奪われたとき、30歳で、お腹にはじめての子を孕(みごも)っていた。大変な衝撃を受けながらも、亡き夫の命を受け継ぐ赤ちゃんを、その後無事出産し、育ててきた女性だ。また、橋本は兄夫婦とその一人娘の一家全滅という苛酷な喪失体験をした元小学校の校長だ。

 3人は祐子の案内で、建屋のすぐ横に移設されていた犠牲中学生たち14人の慰霊碑に手を合わせ、碑に刻まれた子どもたちの名前を代る代る手の平でなでた。

「みんなでシャボン玉を飛ばしませんか」

 邦子はそう言うと、バッグからシャボン玉の用具を取り出した。小さなビニールのコップをめいめいに配ると、ボトルの石けん水を少しずつ注いだ。

シャボン玉で笑顔が

 シャボン玉は、邦子らが毎年8月12日に御巣鷹山の尾根で亡き人たちの霊の安らかなることを祈って飛ばしてきたものだ。シャボン玉は不思議な魔法使いだ。七色に輝きながら風に舞う無数の透明な玉を目で追っていると、思いが亡き人に届くような気持ちになってくるし、玉の一つひとつが亡き人の魂のようにも見えてくる。そして、直径20センチを超える大きな玉がゆっくりと空に上がっていくと、歓声や笑い声が湧き上がる。気がつけば、みんなの心がやさしい温もりに包まれているのだ。

 亡き中学生14人の慰霊碑の前で、邦子たちに誘われて、祐子も一緒になって、シャボン玉を飛ばし始めた。「うわー、きれい。あっ、大きい!」と声をあげる。みんなが笑顔になっていた。

 そこに、閖上の遺族の1人、佐々木清和が現れた。佐々木は、閖上を襲った津波で、妻りつ子(42歳)、一人娘で中学校2年生の和海(かずみ)(14歳)、同居していた義父利一(76歳)、義母かつよ(68歳)の全員を亡くしている。自身は、地震発生時に、宮城県南部の内陸にある柴田町の陸上自衛隊船岡駐屯地に勤務していた。大地震が起きたことは揺れでわかったが、停電でテレビもラジオも使えなかったので、大津波による大災害が発生したことは夕刻まで知らなかった。閖上一帯が大津波に襲われたのを知ったのは、部隊の同僚がスマホで見ていたニュースの映像によってだった。

柳田さん「和解の山」トビラサシカエ写真(Aを使用)
 
シャボン玉を飛ばす美谷島さん(写真左)と丹野さん(右)(提供「閖上の記憶」)

家族全員を津波で失って

 翌日早朝、部隊のクルマで同僚と一緒に名取市一帯の“偵察”に出かけた。だが、自宅のあった閖上地区は、まだ水が引いておらず、近づけなかった。名取市の避難所を訪ねても、家族は誰もいなかった。名取市内の遺体安置所で、最初に確認したのは、災害から10日経った3月21日、娘の和海の遺体だった。その後、妻、義母、義父の順で確認することができた。自分以外の家族全員を「さよなら」の言葉もなく突然失った佐々木は、まったく笑顔を見せない取っ付きにくい男になっていた。祐子から犠牲中学生たちの慰霊碑を建てようと提案された時には、会合に参加して賛成の意思表示をしたものの、悲しみの感情は心の深いところで凍りついてしまったのか、すべてが夢のなかの出来事のように思えてならなかった。

 そのような佐々木に対して、祐子は全身棘(とげ)のある衣を着ているような印象を抱いた。でも、家族全員を失い、たった1人残された身になったら、そうなるのは当然のことだろうと受け止めていた。佐々木は、それでも慰霊碑建立や「閖上の記憶」の建設活動、語り部活動に、部隊勤務の都合をつけては参加していた。

 そして、震災5年後の「閖上の記憶」での集いにも駆けつけたのだった。

「佐々木さん、一緒にシャボン玉を飛ばしましょうよ」

 祐子に言われて、邦子が差し出した石けん水を入れた小さなコップとストローを受け取った佐々木は、シャボン玉の飛ばし方を知らないのか、ストローを右手の人差し指と中指にはさんで口にくわえた。それは煙草をくわえるいつもの佐々木の姿そのものだった。

「佐々木さん、シャボン玉は煙草じゃないよ!」

 祐子がそう叫んで大笑いすると、佐々木はあわててストローを口からはずし、照れ臭そうに笑った。50近い男とも思えぬ子どものような笑顔だった。

《あっ、佐々木さんがはじめて笑った!》

 祐子は、口に出さなかったが、心のなかで叫んだ。5年間1度も見せなかった笑顔だった。祐子は涙が出そうなくらい嬉しくなった。

 邦子が佐々木に近寄って、シャボン玉の飛ばし方を手ほどきした。佐々木がみんなと一緒に飛ばしたシャボン玉は、やわらかい早春の陽光をあびて七色に輝き、娘・和海の名を刻んだ慰霊碑の上を漂い、ゆっくりと空に昇っていった。

柳田さん「和解の山」トビラサシカエ写真(Aを使用)のコピー
 

危機の時代と「生きなおす道」

 このささやかながらなごやかな時間を持てたことは、佐々木にとっては、心を凍土にしていた厚い氷の扉がほんの少しだけ動いた意味を持ったようだった。「閖上の記憶」での集いは、この後、邦子による「命の重みを伝え続けて」と題する講演で始められた。邦子は、日航機事故以後、自分自身がどのようにいろいろな人たちによって支えられてきたか、また多くの遺族たちが、8・12連絡会の会報「おすたか」を介してそれぞれの近況と思いを交換することや、毎年の御巣鷹山慰霊登山での再会と交流を深めることによって、何年経ってもつながりあい続けたことが、いかに生きる支えになってきたかといったことを静かに語った。

 そして、大切な人を失った遺族を支えるうえで大事な心得として、喪失の悲しみは、歳月が経ったからといって、薄れたり消えたりするものではなく、逆に歳月の経過が悲しみを深くすることもあること、心を整理して新しい人生を積極的に生きられるようになるまでの時間は、人によって違いがあるので、その歩みの遅い人を置いてきぼりにしないことなどを強調した。

 講演の後は、三々五々グループに分かれての交流会が行われた。特に邦子を囲んだ遺族たちからは、「お話を聞いて心が救われました」「生き残って申し訳ないような心のしこりも今日のお話で取れました」などと、涙ながらに心情を打ち明ける言葉が聞かれた。やはり生(なま)の声による語りあいの強さと言おうか。

 2日目は、8・12連絡会の3人に加えて、大川小学校の児童・教師ら84人が犠牲になるという大惨事で小学校5年生の千聖(ちさと)(11歳)を亡くした父親・紫藤隆弘(しとうたかひろ)と、77銀行女川支店の避難指示失敗で犠牲になった行員たち12人のなかの1人・健太(25歳)の両親田村孝行・弘美夫妻も参加して、閖上の遺族たちと車座になって語り合う座談会が開かれた。

 全員が苛酷な体験をしているだけに、一人ひとりの言葉に重みがあったが、祐子や小齋の舵取りもあって、語り合いはただ涙を流し合うだけでなく、様々な活動をしている団体やグループが折々に交流して、互いに支え合うとともに、命を大切にする安全な社会づくりの活動をたゆまずに進めていくことが大事だという方向性を確認し合えた意義は大きかった。

 事故や災害の被害者が小規模ながら集まって、個人個人の心の整理の問題までを含めて集いを開き、皆が思いの丈(たけ)を語り合い、それぞれに学びを得る場が実現したのは、これがはじめてではなかったろうか。それは、この危機的な時代に、多発する惨事の被害者が喪失の悲嘆を、個々人の問題として密かに耐えるのでなく、広く人々が共有し支え合うべき問題として表に出し、めいめいが「生きなおす道」を探るとともに、命を大切にする社会を創り出していく「声」としてつなげていこうとする新しい精神文化の芽生えと言えるだろう。

心の凍土が解けた瞬間

 佐々木は2日間の行事にずっと参加して心に沁みるものを感じ、そのぶんだけ邦子に個人的に会って自分の苦しみを聞いてもらい助言を受けたいという思いを強くした。それを聞いた祐子は車座座談会の後、別室で邦子と一対一で話し合う時間を設けてくれた。

 佐々木は、はじめのうちは緊張した。あの凄惨な事故から30年間も被害者の中心になって活動を続けてきた人だから、強く厳しい人かもしれない。きついことを言うかもしれないと、勝手に想像していたのだ。

 しかし、自分の辛さと孤独感、自衛隊勤務は続けているものの、何を目的にどう生きていけばよいのかわからないままでいることなどを、ぼそぼそと話すのに対し、邦子はやさしい眼差しで耳を傾け、きついことは何も言わず、自分の話にうなずいて、すべてを受け入れてくれる。このように自分のすべてを肯定してくれる人に会ったのは、はじめてだった。邦子の話で特に胸にずきんと響いたのは、「5年間、ずっとお辛かったでしょうが、悲しみはこれから月日が経つうちに、もっと深いものになるかもしれません」という言葉だった。

《悲しみがもっと深くなるのか》――佐々木はショックを受けながらも、邦子がその場しのぎの言葉で安心させるのでなく、向き合わなければならない現実をしっかりと自覚させてくれたのだと気づくと、邦子に対する信頼感を一段と強くした。

 部屋を出た佐々木は心のなかを不透明にしていた靄(もや)がすっかり消えたようなすっきりとした感覚になっていた。不思議なことに、邦子が話してくれた言葉は、その瞬間瞬間には大切なことだと感じたのに、右記の言葉以外はほとんど思い出せない。それでも佐々木の心に劇的な変化をもたらしたものがあった。それは、邦子の30年の波乱の歳月を染み込ませた全人格からにじみ出てくる眼差しと表情と存在感だったと言えよう。

 悲嘆のどん底にいる人が、何らかの印象深い言葉によって再生へのきっかけをつかむことは少なくない。しかし、時には支える立場の人の具体的な言葉以上に、その人の眼差しや表情や雰囲気から伝わってくる、まるごと寄り添ってくれるという“魂のメッセージ”が悲嘆者の心を揺さぶり、転機を生み出すことがある。

 佐々木の心は5年間凍土の状態にあったが、同じように子を亡くした親である邦子とのはじめての出会いが、思いがけないシャボン玉飛ばしで笑いを生んだことで、固い氷の扉が少しだけ動いたので、翌日邦子と心置きなく語り合ううちに、氷の扉はゆるやかに開かれて暖かな空気が流れ込み、凍土は解けていったのだ。

「頑張って生きろよ!」

 集会室に戻った佐々木は、祐子に穏やかな笑みを浮かべて、「よかった。ありがとう」と言った。

 祐子は、直感的に感じた。

《佐々木さんが変われるかもしれない》

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source : 文藝春秋 2022年10月号

genre : ニュース 社会