「いつの間にか自分ひとり取り残されている」小1で味わった帰国子女の苦労

――6歳で日本に戻って来て、カルチャーショックはありましたか。

中川 一番は日本語についていけなかったというのが大きくて。

 たとえば友だちと3人で一緒に帰っていると、私以外の2人だけでこしょこしょ話が始まって、いつの間にか自分ひとり取り残されているような感じで……。とはいえ、同じテンポで話ができないと楽しくないというのもなんとなくわかるから、仕方ないよね、と思う部分もあって。

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――小学1年生で帰国子女の苦労を味わったというか。

中川 “転校生”という立場だったのでひとりになってしまうことも多くて。本当はそんなに仲良くなくても、とにかく皆の仲間っぽく見えるように振る舞わないと、みたいなことを無意識に考えてやっていた気がします。本当のホーム感は感じられなくても、せめて周りから見たときに一匹狼と思われないようにしなきゃって、そういうことばかり気にしていました。

 アナウンサーになってからは、現場に入ればディレクターや記者、カメラマンなど、それぞれに明確な役割があるので、そういう意味では気が楽なんです。でも仲間同士で集まったときの自分の立ち位置というか、どう見られているか、といったことは、いまだにすごく気にしてしまいますね。

 

プエルトリコ人になろうとスペイン語を猛勉強、さらに日焼けやピアスまで…

――そんな中で今度は10歳から14歳までプエルトリコに移住されて。

中川 プエルトリコにいた時期やその前後はまさに多感な時期というか、環境に馴染むということに一番苦労した記憶があります。

 それこそ、プエルトリコにいる時はプエルトリコ人になろうとすっごく頑張っていたので、そこからまた日本のカルチャーに馴染むのに苦労して……。

プエルトリコ時代の中川安奈さん(写真=本人提供)

――「プエルトリコ人になろう」と、どんなことを頑張っていたんですか?

中川 家のプールサイドで一生懸命日焼けしようとしたり、現地の女の子たちと同じようにピアスをしたいあまり、自力でピアスホールを開けてしまったり。

――安全ピンですか。

中川 そうです。安全ピンを熱湯で消毒して、自分でブスッと。ピアスがしたすぎて、まったく痛くなかったんですよね(笑)。

 あと、当時私は身長が高い方だったんですが、現地の同年代の子は小柄な子が多かったので、私もこれ以上背が伸びないように牛乳飲むのをやめてみたり、あえて睡眠時間を削ったり。結局、今SNSで彼らを見るとすごく背が高くなっているんですけどね(笑)。

 

――それだけ一緒になりたい思いが強かったと。

中川 そうですね。プエルトリコではみんな英語が話せるので日常のコミュニケーションに困ることはなかったんですけど、それでもローカルの子たちはやっぱりスペイン語で話すのが自然なので、頑張ってスペイン語も勉強しました。