なんと、そこで老人が目にしたのは、大きな一頭の羆がシカの死体にまたがって、下腹のあたりを喰い破り、内臓をむさぼり喰っている姿であった。熊もひどく驚いたのであろう、引っぱり出した内臓を口からぶら下げたまま、じっと老人を見すえている。
老人と熊との死闘
だが、生い茂るボサ藪は老人の下半身を隠すほどの丈があり、手に下げた銃も熊の位置からは見えないものと思われた。老人はそろりと左手の銃を持ち上げて、右手でしっかりと銃把を握った。そして、そっと左足を前に踏み出したとき、不覚にも右足がズルッとわずかに辷った。体が斜面にかしぎ、一瞬目線が逸れ、熊が大きく跳んだ。かしいだ体勢を立て直す間もなく、腰矯(こしだめ)にした銃がダーンという音とともに火を噴き、老人は切り株の下部へ回り込みながら腰の弾帯から二弾目の実弾を抜き出して、手早く装塡した。銃身を一振りすると同時に熊を見ると、緩斜面を下へ跳んだ熊が、向きを変えるやいなやウオーッと一声大きく吼えて、今度は老人に向かって走りだした。肩付けするいとまもなく、またもや腰矯にして、走り上る熊の真正面に撃ち込み、素早く切り株の上へ回り込んで、三弾目を詰めるべく遊底を開こうとした。ところが、老人がいくら引いてみても遊底は開かなくなってしまった。
古い村田銃の弾ケースは真鍮で造ってあり、何発か詰め替えをして撃っているとケース脹(ぶく)れをおこし、弾を発射した後、空ケースが抜けてこないことがあるのだ。
羆は、と見れば、斜面に坐り込んで傷ついた胸のあたりを搔き毟(むし)っている。それを見定めた老人は、傍らに生えている少し太目のカシワの木に登った。
第一の枝は、地上から約八尺(二・四メートル強)あり、大きな羆なら立ち上がって前肢を伸ばすとどうにか届く高さに付いている。老人は、その一の枝に立って幹に左足をからませ、再度銃を操作してみたが、脹れたケースは一向に抜ける様子もなく、遊底はどうやっても開いてくれなかった。そのうち、立ち上がった熊が低い唸り声を発しながら斜面を上ってきた。木の下に寄った熊は、顔を振り上げて老人を見、木の上側に回り込むや、前肢を幹に掛けて立ち上がり、真っ赤な口をあけてガウーッと一声吼え、老人を威嚇した。仕方なく老人は銃の先を羆の顔面に押し付け、「ズドン、ズドン」と大声を出して脅かしてみた。だが、熊はひるむ気配すら見せず、木を叩いたり揺すったりしていたが、しまいには老人をにらみつけて大きく吼え、その木に登り始めた。
老人は思いっきり体を低くして、銃口で熊の鼻先を突いた。ウワッと短く吼え、いきなり熊が銃の先に嚙みついた。老人は右手を銃床の台尻にかけ、熊の咽深くまでいきなり銃身を押し込んでやった。さすがに痛かったのであろう、熊は木から滑り落ちながら大きく頭を振った。そのとたん、危うく木から転落しそうになった老人は、思わず銃を手離し、木にしがみついた。