直木賞作家となった向田邦子を襲った悲劇

やなせはその後、向田から雑誌『銀座百点』に掲載するエッセイ『父の詫び状』の挿絵を依頼される。これは向田の代表作の一つとなり、『思い出トランプ』で直木賞を受賞してからは、猛烈な勢いで売れていく。一方、当時の自身の状況について、やなせは『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)でこう記している。

「ぼくはといえば、相変わらず陽の当たらない場所でゆきあたりばったりのその日暮らし。本業は霧に閉ざされて、このまま雑業の便利屋で得体の知れないまま人生が終わりそうな気配。運命やいかに? なんてね」

また、『アンパンマンの遺書』ではそこから向田と疎遠になった経緯をこう記している。

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「身分ちがいになったぼくは、気おくれしてしまって逢うことはなくなった。はじめのうちは本が出るたびにおくっていたが、それも途絶えてしまった」

そして、1981年8月22日。向田邦子は台湾での飛行機事故により51歳で急逝した。遠東航空103便墜落事故により、取材旅行中だった向田は帰らぬ人となった。当時62歳だったやなせたかしは、作詞家として「手のひらを太陽に」などのヒット曲を生み出していたが、本業の漫画家としては、まだ代表作を生み出せずにいた時期だった。

「手のとどかないところへ行ってしまった」

やなせは、向田の訃報を新聞の記事で知った時の衝撃をこう記している。

「今度こそ本当に手のとどかないところへ行ってしまった。孤独なランナーは猛烈なラストスパートをして、人生の最後のテープを切ってゴールインした。ぼくはまだスタートラインの近くで迷ってうろうろしていたのに……。なにかしら、自分の中でひとつの準備がはじまっているような気がした。でも、まだすべては漠然として霧の中だった。ぼくはいったい、どのへんをどっちの方向に向って歩いているのだろう?」(『人生なんて夢だけど』)

この言葉からは、向田が創作者として全力疾走し続け、51歳という若さで急逝したことへのやなせの無念さが伝わってくる。実際、やなせが『アンパンマン』を世に送り出すのは、この8年後の1988年、69歳の時である。