頭木 僕は二十歳で潰瘍性大腸炎になって入院していた頃、カフカの「いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」という言葉に出会いました。これは衝撃でした。それまでは、立ち直らなければいけないと思っていたからです。倒れたら、立ち上がるのがあたりまえだと。でも、そのせいで、心が焦げてしまっていました。倒れたまま立ち上がれないときもあるし、倒れたまま生きていくということもありなんだと、ようやく気がつけました。これは本当にありがたかったです。僕は今も倒れたままです。
――価値観が一変したんですね。
頭木 カフカは若い詩人の卵に、「あなたは詩人を大きな人間、上から見下ろす人間だと思っています。しかし、実際には、詩人は他の人々よりも現世の重みにおしつぶされています」と言っています。上からではなく、下から見ているんですね。
萩原朔太郎も芸術について「生存欲の本能から『助けてくれ』と絶叫する被殺害者の声のようなものです。その悲鳴が第三者に聞かれた時に、その人間の生命が救われるのです」と言っています。切実に辛いからこそ出てくる言葉がある。寺山修司が言った「『苦痛』こそはまさに、絶対。」という言葉も、経験した者でなければ出てこない、実感の重みがありますね。
――その一方で、トルストイのように、偉大な作家であっても痛みに無理解な人もいた、という指摘が印象的でした。
頭木 トルストイは間違いなく大作家ですが、自身が高齢になっても非常に元気だったこともあり、「病気になって労働ができないなら、笑って堪える手本を見せることによって人々に奉仕しろ」というような、ひどいことを言っています。やっぱり経験の有無は大きいと感じます。でも、カフカは病気になる前から、まるで経験したかのように痛みの解像度が高かった。おそらく、十分に過敏な人間にとっては、生きること自体に痛みが伴うのでしょう。
――なるほど。
病から何かを得ようとしなくていい、倒れたままでいいんだ
頭木 本書では思想家のシオランの言葉を何度か引用していますが、子どもの頃からリウマチを経験していただけあって、痛みをめぐる様々な名言を残しています。
「苦痛は人間に眼を開かせ、ほかの方法では知覚できないような事象を、まざまざと見せてくれる。したがって苦痛は認識にしか役立たず、それ以外の場では、生に毒を塗りこめるだけである。」(『生誕の災厄 新装版』出口裕弘訳 紀伊國屋書店)
たしかに痛みを感じたことによって、これまで気づかなかったいろいろなことに気づいたりします。でも、生きていくうえではただただ辛い。だから、当人が「痛みのおかげで得たものもあった」と語るのはいいのですが、周りが「痛みを我慢することも大事だ」とか、「病気にも意味があった」といった「困難克服物語」を押し付けてはいけないと思います。
病から何かを得ようとしなくていい、倒れたままでいいんだ――と思えたとき、多くの人はホッとするはずです。そういう圧力が、世の中にはありますから。
――それはとても重要な指摘ですね。病気は自己責任、という風潮も根強くあります。
頭木 「不摂生が原因で病気になった」などと因果関係を見つけられると、人は安心するんですよね。自分はそうじゃないから大丈夫、と。でも実際のところ明確な因果関係がつねにあるわけではなく、人は“流れ弾にあたる”ように病気になってしまうことが多々あります。

