痛みが「来るぞ、来るぞ」と身構える辛さ
――ものすごく大変でしたね。ご著書で書かれていた「来るか疲れ」も非常に印象的でした。
頭木 ずっと痛いのも、もちろんきついですが、この先また痛くなるというのがわかっているのもきついですよね。落語家の古今亭志ん生が「人間てえ奴は、表でもってものに転んで、向うずねをぶっつけて痛てえと思うけれども、それが二時間くらい前に、これから痛い思いをするてえことが分ってたら、その間がとてもいやですよ」と言っていますが、本当にそうですよね。僕はいま、ときどき腸閉塞になってしまうんですが、腸閉塞の痛みは間欠的なのが特徴で、治まってきたり、また痛くなったり、波打ちます。大きな波がくるぞというときの、「来るぞ、来るぞ」と身構えている時間は非常にいやですよね。
――向うずねは、いきなりぶつける方が、まだマシかもしれません(笑)。
頭木 体の痛みと心の痛みは単純に分けられないことも、この本を書いていて痛感しました。かつては「気のせい」にされてきた痛みも多いわけですが、それは当事者にとって本当に辛いことでした。リアルに痛みを感じているのに、ありもしない腹を探られるわけですから。
――痛みの感じ方や種類は個人差が大きいため、なかなか周りに理解してもらえないわけですね。
頭木 そうなんです。似たような病気やケガを経験したからこそ、「自分のときはそんなに痛くなかった」と、かえって人の痛みを軽く見積もってしまうこともあります。経験しないとわからないし、経験してもかえって無理解になってしまう場合もあるわけです。
自分の痛みを周りにうまく伝えられないと、わかってもらえなかったり、誤解されたままになってしまいます。そこで助けになるのが、文学です。文学は、言葉にならない体験や気持ちをなんとか言葉にしようとがんばってくれているものですから。痛みを表現する上でもとても参考になります。
それに、医学をはじめ、世の中の多くのことは統計的です。「100人中99人にこの薬は効きます」と言われたとき、そこには効かなかった一人がいる。その一人になったときの心境は、大変なものです。もはや、統計的なアプローチでは救われようがない。でも、文学は、むしろその「こぼれ落ちた一人」にこそ光を当ててくれます。「個」を徹底的に掘り下げていって普遍性に到達する、本当に大事な分野だと思います。
カフカの言葉に見つけた“自分の今の気持ち”
――本書の中で、頭木さんが腸閉塞の症状が出ないよう、ひたすら冬の寒い日に街なかを歩くなかで想起したカフカの言葉は、ひときわ胸にしみました。
頭木 カフカは坑道のカナリヤのような存在で、他の誰も苦しんでいないときから、ひとりだけ苦しんでいます。そして、その苦しみを見事に言葉で表してくれます。読むと、ああ、自分の今の気持ちはこれだ、という光のような言葉が必ず見つかります。
カフカは家と会社の往復という小さな世界で生きていましたが、その中で非常に過敏に、緻密に物事を見つめ、結果的にすべてに通じる普遍的な真実を描き出しました。友人の作家に「もっと大きなことに取り組むべきだ」と言われたときも、「ぼくは、ぼくのねずみ穴の中でも自分を試せるはずだ」と答えているんです。
――すごくいい言葉ですね。

