食べる、という行為は、楽しいこと、明るいことずくめのように語られがちだ。でも、それだけじゃない。『食べることと出すこと』には、食べることのダークサイドがきっちりえがかれている。
文学紹介者の頭木弘樹さんは、二十歳のときに潰瘍性大腸炎を患った。
「たき火がまた燃え上がって、山火事になってしまわないよう、なかなかそばを離れることができず、ずっと心配し続けているというのが、この病気になった人間の心境だ」
治療のための絶食を経て、世に流通するほとんどのものは口にすることができない生活に入る。豆腐、半熟卵、鶏のささみ、裏ごしした野菜を食べ続けてしのいだときもあった。会食の席で、到底食べられない料理を無理強いされ、断れば人の輪からはじかれ、たまらない疎外感を味わう。細心の注意を払っていたって、ふとしたことで再発する。入退院を繰り返す。食べたら、出る。それは止められないと知る。
出すこと、排泄の話は、とかく露悪的になるきらいがあるものの、頭木さんはとても平明な筆致で、誇り高さを保ちながら書いているので、こちらもすんなりのみこめる。
随所随所に、頭木さんがよすがとしているカフカ、山田太一らの小説やエッセイの中から選ばれたフレーズが挟み込まれている。文学紹介者という仕事柄、そして、より普遍性を得るためにそういう構成にしたとある。ちりばめられたそれらの引用文はもちろんこの本にしっくり溶け込みながらこちらの胸を打つ。しかし、たとえそれを差し引いたとしても、頭木さんの文章そのものには、じゅうぶんに普遍性がある。
病院内での出来事からの考察、病人とそうでない人との気持ちの齟齬などにも、多くページが割かれる。私にとっては、それは想像もしなかった、という新発見は3割、共感が7割だった。あるある、と、挙げていくときりがないので、厳選すると「病人は、病気になるという悲しい出来事の真っただ中において、明るくしていることを求められる」、「日頃いくらやさしくても、弱ったときに冷たくされれば、もはや、もとのような気持ちではつきあえない」、「メメント・モリすぎる」などはとりわけぐっときた。
私自身、昨年にステージ2の乳がんと判明、もっか治療中という身である。なにも身体に心配のない人だったら、新発見と共感の割合は逆転するだろうとも思う。それは幸せなことにちがいない。
自分自身を振り返っても、体験する、という強烈さ以上に説得力のあることってなんだろうか、心許なくもなる。しかし身をもって味わいはせずとも、こういった優れた体験記を読み、想像をする余地、それこそが人間らしさだな、と、思わされるのもほんとうだ。
かしらぎひろき/文学紹介者。筑波大学卒業。大学3年時に潰瘍性大腸炎を患い、13年間の闘病生活を送る。カフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』を出版。
きむらゆうこ/1975年、栃木県生まれ。文筆家。書評と食文化を主な持ち場とする。著書に『味見したい本』など。