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80年代の揺れる韓国 タクシー運転手がくり広げる悲喜劇とは

万城目学が『舎弟たちの世界史』(イ・ギホ 著)を読む

2020/10/05
『舎弟たちの世界史』(イ・ギホ 著/小西直子   訳)新泉社

 タクシー運転手ナ・ボンマンは罪を犯した。

 その内容とは職務中、新聞配達の少年の自転車と軽く接触してしまったことだ。しかし、状況を確かめる間もなく、少年は夜明け前の闇へ消えてしまう。

 その日から、ナ・ボンマンは左折ができなくなった。

 左折ができないタクシー運転手。これでは仕事にならない。

 ナ・ボンマンは正直者だった。タクシー運転手になってからも信号違反、駐車違反、スピード違反、あらゆる違反をたったの一度も犯したことがなかった。

 決して、必要以上の罰を甘んじて受けようとしたわけではなかった。ただ、のちのち被害者が名乗り出て、さらなる厄介ごとに巻きこまれるよりは、自ら事故を申告することで将来発生するかもしれないトラブルを予防しようと考え、さらには精神的プレッシャーが軽減することで、ふたたび左折が可能になるのではと期待して、警察署を訪れたのである。

 しかし、そこで彼は致命的な間違いを犯してしまう。ふらりと入った警察署にて交通課ではなく、情報課の扉を叩いてしまった。そう、孤児であるナ・ボンマンは字が読めなかったのだ。

 作品の舞台は1982年。近年、話題になった韓国映画『タクシー運転手』はタイトルどおり、1980年の光州事件に巻きこまれたタクシー運転手の話だが、本作の背景もまた、光州事件と根っこを同じにする。

 すなわち、当時の大統領全斗煥による民主化運動の弾圧、その運動の陰に共産勢力、反米勢力による大衆の扇動があるのではないかと勘繰る支配者層の猜疑心が、公安組織によるありもしない陰謀のでっち上げを促し、無実の市民の逮捕・監禁、暴力的な取り調べの横行、大量の冤罪の発生へと、悲劇が拡大再生産された時代――。

 彼はただ運が悪かっただけなのか。

 地元で発生した政治事件の処理にてんてこまいになっている警察署の情報課へ出頭し、己の罪(少年との接触事故)を一方的に告白したナ・ボンマン。その結果、望んでいた道交法違反による罰金なり書類送検なり、適切な処罰を受けることができた――わけではなく、ちょっとした手違いから政治事件の関係者としてリストアップされてしまう。

 ここから始まる手違いの連鎖は、まるで悲劇のドミノ倒しのよう。押し寄せる不条理な試練のことごとくに、ナ・ボンマンは間違った解釈と選択をしてしまう。されど、その筆致はあくまでユーモアある調子を保ち、むしろ滑稽劇の主人公、ゴーゴリの「鼻」のような、悲惨なのだがどこかしら諦観に満ちたおかしみが全編に漂う。

 ちなみにタイトルにある「舎弟」とは、暴君・全斗煥大統領を「兄貴」と捉えたときの無力な子分たち「庶民」を指すそうで、そこからすでに哀愁のメロディーは奏でられている。

李起昊 이기호/1972年、江原道原州市生まれ。小説家、光州大学文芸創作学科教授。99年、短篇「バニー」が文学誌『現代文学』に掲載されデビュー。邦訳書に、『誰にでも親切な教会のお兄さんカン・ミノ』(亜紀書房)、『原州通信』(クオン)がある。


まきめまなぶ/1976年、大阪府生まれ。小説家。『とっぴんぱらりの風太郎』『バベル九朔』『べらぼうくん』など著書多数。

舎弟たちの世界史 (韓国文学セレクション)

イ・ギホ ,李起昊 ,小西 直子

新泉社

2020年8月1日 発売

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