村上春樹さんが六年ぶりに放つ短編小説集『一人称単数』。

 EXILEパフォーマーにして、三代目 J SOUL BROTHERS リーダーを務める小林直己さんは、高校時代からの筋金入りの“村上主義者(ハルキスト)”である。

 週刊文春10月1日号に小林さんによる『一人称単数』の書評が発表されたが、実は、掲載されなかった「幻のもう一つの書評」が存在する。

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小林直己さん ©杉山拓也

 まったく異なるこの未掲載の書評は、小林さんの熱意ゆえに二編同時に書かれたものだが、奇しくもこれらの同じ〈私〉から生まれた、異なる〈私〉の言葉は、『一人称単数』の世界を体現する仕掛けにもなっていた──。

 このまま埋もれさせてしまうには惜しい、この、同時に存在する「もう一つの書評」を、異例の試みではあるが、本誌掲載分とともに二作同時公開する。

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『一人称単数』(村上春樹 著)文藝春秋

 短編小説集としては『女のいない男たち』から六年ぶり、小説は『騎士団長殺し』から三年ぶりの刊行となる今作。八つの短編小説は、独立していながらも、読み進めていくと不思議と何処かで繋がっているかのようだ。著者の自伝的な要素がありつつ、村上春樹節の効いた「この世界によく似たもう一つの世界」に急に連れていかれる心地よさもある(私は氏の大ファンだ)。悲しく、おかしみがあり、恐ろしい中にも真に迫る物語たち。コロナ禍によって非日常が日常になった私たちのささくれた心に、そっと豊潤な時間をもたらしてくれるだろう。

「一人称単数」というタイトルは、『僕・ぼく・私』という言葉が指し示す「自分自身」にフォーカスし、その存在と認識を問う。この短編集は、主人公の『僕・ぼく・私』が、過去に出会った人や、動物や、はたまた過去の自分を、思い出す(もしくは語り出す)ことで始まっていく。すると、鮮烈な記憶と質感が蘇り、その時その時の自分が、それぞれに存在する。『僕・ぼく・私』は、この世界において、唯一であるはずなのに、それぞれの記憶の中では、各々が全く違う人間だと感じている(もちろん、一つの線の上にいるのだけれど/しかし、疑わざるを得ないくらい異なる)。

 私(小林直己)自身、自分が全く違う人間になったと気づくことがある。また、望んで変化したこともある。過去を振り返ると、嫌悪するほどの自分に気づいたり、誇りを持ち礎となった自分に再会したりする。それは、まるでサナギから蝶へ、トランスフォームするかのようだ。時間軸を縦に俯瞰すると、いくつもの私が存在している。私、は自分自身の一人称単数であるはずなのに、複数が存在することを同時に認めている。

 著者は、一瞬を無限に引き延ばすことができる。それが私の学生時代を救った。日常で感じる違和感、絶対に忘れたくない大切な瞬間、一生引きずることになる後悔。それらを、とどめ、引き延ばし、固定する。その空間の中で、検証し、吟味し、追体験する。時に、受け入れられるはずもないことですら、その状態のまま、そばに置いておくことを可能にする。

 どうしても社会と情熱の前線に乗り切れない人。それが、著者の小説の主人公たちの印象だった。高校時代、私が日々、誰にも言葉にして伝えることができなかった感覚を、言葉にしてくれた一文を見つけた時、著者の作品は、人に見せたくない自分の一面を慰めてくれる存在となった(こうして、書評を書くことを当時の自分に伝えても、信じないだろう)。時に、戻りたくない「あの時」に引き戻されてしまう底なし沼のような怖さがあるのだが、今作でまた、その魅力を再確認した。

 著者の魅力を隙間時間でも味わえるこの短編集。どこから読んでも、読者は新しい『僕・ぼく・私』に出会えるだろう。