頭木 それに、たとえ当人に何らかの落ち度があったとしても、ゴッホの語ったある言葉を忘れられません。ゴッホが、子持ちで妊娠中の娼婦と結婚すると言い出したとき、周囲の人たちは「たちのよくない女にだまされている」と止めます。それに対してゴッホは、彼女に問題があるのはわかっているけれど、「彼女の不幸は彼女の責任を越えて大きいのではないか」と言います。当人によくないところがあるにしても、それ以上に不幸が大きいのだから、助けてあげなければということです。私はこのゴッホのやさしさが大好きです。

 たとえ不摂生があったとしても、病気や痛みという不幸はその代償として大きすぎる場合もあるわけです。自業自得で片付けてしまうのはあまりにも残酷です。

『痛いところから見えるもの』

一般論で対応せず、まずはそのまま受け止める

――同感です。痛い人のそばにいる人、ケアする側はどんな配慮ができるでしょうか。

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頭木 一番大事なのは、一般論で対応しないことだと思います。医学の知識を得て、「この病気でそこが痛むはずはない」とか、「先生はこう言っていた」などと、身近な人ほど言いがちです。でも、100人中99人がそうでなくても、目の前の一人は違うかもしれない。そばにいる人には、どうか、目の前の当人が言ったことを、まずはそのまま聞いて受けとめてあげてほしいです。

――当たり前のようで、意外と難しいことかもしれませんね。

頭木 本当にそうなんです。家族や親しい人ほど悪気なく「そんなに痛いの?」と疑ってしまう。痛い上に疑われるのは、当人にとって二重の苦しみです。「〇〇すべき」というお説教とかアドバイスも医者に任せて、そばにいる人は、その人個人にだけ対応してほしい。

 あと、病院でよく耳にするのが、「みんな大変なんだよ」という言葉です。もちろん、みんな大変ですが、そういう一般化で口封じをしないで、目の前の人の大変さをちゃんと聞いてあげてほしいです。

「あの人も同じ病気だけど頑張っていた」と立派な人を持ち出されるのも、困ります。元気な人だって、立派な人を見習うのは難しいはずです。

 当人が痛みを訴えていたら、「痛いんだね」と話を聞いてあげる。それだけでも、当事者の気持ちは相当違うはずです。

――本書のさまざまな名言と当事者研究の視点は、ケアのあり方を考えるうえでも非常に示唆に富んでいますね。

頭木 痛みは、いまだに科学的に測定できません。実はかなりつかみどころがないものです。これまで痛みに対しては科学的・医学的なアプローチが主でしたが、文学的なアプローチもあっていいのではないかと思いました。

 いま痛みを抱えている人には、その痛みを少しでも言語化して人に伝えられるように、痛い人のそばにいる人には、言葉にならない痛みを少しでもわかってあげられるように、本書を読んでいただけたら嬉しいですね。「わかってもらえない」「わかってあげられない」という悲しいぶつかりあいをしないために。本書がそのささやかな一助になればと願っています。

 そして、今は痛みと関係ない人にも、知的好奇心として読んでおいていただけたら、うれしいです。

痛いところから見えるもの

頭木 弘樹

文藝春秋

2025年9月11日 発売

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