フジテレビが来る前には何があった?
お台場のルーツが幕末のペリー来航に慌てた幕府が江戸湾に造成した砲台にある、というのはよく知られたところだ。レインボーブリッジの袂には、いくつか浮かんでいた砲台のひとつ、第三台場が史跡公園として残されている。
ただし、明治に入るとこの台場、事実上ほったらかしのような状態で海に浮かんでいただけだった。なんでも、関東大震災や東京大空襲で火災から逃げて隅田川に飛び込んだ人たちの遺体が、第三台場付近まで流れ着いたという。
そんな台場がいまのような形に姿を変えていったのは、1960年代以降のことだ。東京湾の浚渫やニュータウンの造成に伴って生まれた建設残土で埋立が進んでいった。
それでもしばらくは取り立てて利用価値もないような空き地がほとんどで、1974年に船の科学館がオープンした他は小さな倉庫街に過ぎなかった。
お台場を一変させたもの
それが一変したのは、1979年に鈴木俊一都知事が就任してからだ。鈴木知事はいわゆる臨海副都心計画をぶち上げた。当初は450ヘクタールに就業人口10万人、居住人口7万人という壮大な巨大都市を建設する計画だったという。
さらには1985年にテレポート構想を発表し、臨海副都心を世界の金融・情報センターにするという構想にも着手する。
そして鈴木知事、「東京でも万博を」の夢を抱いて世界都市博覧会の開催も決定。1993年にはレインボーブリッジが開通し、オフィスビルや商業施設、ホテル、マンションの建設も進んでいった。
こうした計画が着々と構築されていったのは、まさにバブルの時代であった。バブル景気の勢いを借りて、臨海副都心、つまり「お台場」の開発がスタートしたのである。お台場は、まさしくバブルの象徴であった。
しかし、バブルはあえなく弾け飛び、1995年には世界都市博の中止と臨海副都心計画の見直しを掲げた青島幸男が都知事に当選。公約通り都市博は中止が決まり、バブル崩壊後の不景気もあって企業の進出はキャンセルが続出する。
いわば、臨海副都心の夢は“都民の声”で待ったがかかったのである。





