見上げるようなタワマン群が屹立する東京の湾岸、豊洲と晴海。子育て世代にも人気が高い豊洲・晴海エリアだが、かつてその付近には火力発電所や東京ガスの工場が立ち並び、両エリアは東京のエネルギー基地という「別の顔」を持っていた。

 そして、その建物の合間を縫うようにかつてはレールが敷かれ、産業鉄道として高度経済成長期の東京の輸送を支えていた。現在は、目新しいショッピングモールやタワマンなどが立ち並ぶ両エリアで、埋もれた鉄路の跡と“倉庫街の豊洲・晴海”の面影を探しにいく。(全2回の2回目/最初から読む

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戦後、工業地帯として発展していった埋立地

 終戦直後、いまの東京湾岸部、東京港一帯はほぼ全域が連合軍に接収された。港を拠点に工業を発展させ、復興の足がかりにしたかった日本にとって、東京の海が使えないのは痛手も痛手。そこで、新たに豊洲の沖を埋め立てて、豊洲石炭埠頭を建設した。さらにその先も東京ガスや東京電力による埋立が続き、広大な工業地帯が生まれる。そして、1953年には貨物輸送を担う東京都港湾局専用線が開業し、工業地帯の豊洲を支えていた。

かつては倉庫街だった埋立地に現在はタワマンが屹立している

 豊洲の交差点の南東側には、高層ビル群とは少し性質の違う町がある。豊洲で働く人たちのために設けられた住宅地や商業エリア。例のセブン-イレブンも、そうした場所に開かれた。工場で働く人が多い町からコンビニがはじまったというのも、興味深いところだ。

 しかし、時代とともに豊洲の町からは、おおよそかつての工業地帯としての面影、そしてそこを走っていた専用鉄道の痕跡は、すっかり消えてしまった。1990年代には火力発電所や東京ガスの工場が姿を消して、入れ替わるようにして再開発が本格化。

 1992年に豊洲センタービルが完成したのを皮切りに、段階的にいまの豊洲の町並みが形成されていった。そうした中で、専用線の痕跡を探すのが難しいのも、とうぜんなのだろう。

豊洲よりやや古い埋立地、晴海

 ならば、晴海はどうか。豊洲から晴海橋梁を渡った専用線は、晴海に操車場を設けていた。晴海の接収解除によって1957年に晴海線が開業。セメントや小麦のサイロが並ぶ晴海埠頭に沿って専用線の線路が延び、その少し内側にいくつもの線路を並べる操車場。晴海もまた、工業色の強い島だった。

 1931年に完成した晴海は、豊洲よりも少し古い埋立地だ。戦前には東京市庁舎を移転する計画、また皇紀2600年を記念した日本万国博覧会の会場とする計画などがあったが、いずれも実現していない。隣接する豊洲が工業化してゆくなかで、晴海も同様の役割を期待されるのはとうぜんの成り行きだった。

 いまの晴海にも、専用線の跡はほぼ残っていない。ただ唯一、かつて操車場だった一帯は広大な空き地としてそのままだ。東京BRTの基地として使われているようだが、大部分は空き地のままだ。その周囲を囲む高層マンションは、およそ晴海も工業地帯だったとは思わせないそぶりである。

 しかし、豊洲と比べればまだ、晴海は往年の面影が残っている。操車場跡の空き地から少し先に進むと、そこにはいくつか倉庫が並ぶ。