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80年代終わり専用線は姿を消し、時代はバブルへ

 しかし、ここでも専用線の痕跡は薄れている。倉庫街があるだけ豊洲・晴海とはだいぶ印象は違うが、ここに線路が通って貨物駅があり、多くの貨車が行き交っていたなど、誰が想像できようか。しかし、東京・湾岸エリアの移り変わりの中では、避けて通ることのできない歴史の一幕である。

1984年当時の竹芝、日の出、芝浦ふ頭付近の地図(国土地理院地図より)

 専用線は、1960年代をピークに徐々に輸送量を減らしてゆく。工業地帯・倉庫街としての役割の低下はもう少し先のこと。町の移り変わりは、まず鉄道が貨物輸送の主役から転落したところからはじまった。1985年には、豊洲物揚場線や芝浦線、日の出線が廃止される。1986年には深川線から豊洲埠頭に向かう路線が廃止され、最後に残った越中島から晴海への晴海線が1989年に廃止となって、東京・湾岸エリアの専用線はすべて姿を消している。

 ちょうどその時代は、バブル景気の真っ只中だった。芝浦の倉庫街もバブルの余波が及び、倉庫を改装した大型ディスコ「芝浦ゴールド」が生まれている。かのジュリアナ東京も、芝浦の倉庫街のほど近く。倉庫街という武骨なエリアが、流行の発信地としての一面を持ち始めたのだ。

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 長く戦後の日本の復興と経済成長を支えてきた、東京の港湾部の変貌は、専用線の廃止とバブル景気によって促されたといっていい。ウォーターフロント、などという言葉が使われるようになったのも、この頃からだ。

建設中の「晴海フラッグ」のタワー棟(2025年竣工予定)。東京のウォーターフロントの姿は変わりゆく

タワーマンションが建ち並ぶなかに

 豊洲、晴海、芝浦も、そして専用線も。東京と日本を支えた港湾部の営みは、1980年代後半からの四半世紀ですっかり姿を変えてしまった。せいぜい、芝浦にまだ残る倉庫街に面影を残すくらいだろうか。時代の移り変わりの中で、徒花のごとく消え去った東京港の専用線。もうもうと煤煙をあげながら貨車が走った町には、タワーマンションが建ち並ぶ。そうした劇的な変貌を生き残ったのが、最初に見つけた晴海橋梁なのだ。

 晴海橋梁は、遊歩道として整備するための工事の最中だ。鉄道橋としては国内で初めてローゼ桁や連続PC桁を採用するなど、建築史においても高い価値を持っているという。もちろん、東京、ひいては日本の経済成長を支えた専用線があったことを伝える存在としての価値も小さくない。

 いまのところ、2025年の夏頃には工事が終わる予定だ。そうなれば、ほとんど唯一といっていい、専用線の鉄橋を歩くことができるようになる。晴海橋梁が結んでいる豊洲も晴海も、見上げるほどの背の高い大きなビルが建ち並んでいる現代的なウォーターフロントである。

写真=鼠入昌史