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いまも往年の面影が点在する晴海だが……

 晴海のシンボル・トリトンスクエアは、1950年代後半から1960年代にかけて建設された公団団地・晴海団地の跡地に整備されたものだ。晴海団地には10階建ての晴海高層団地もあり、のちのウォーターフロントタワマン群のハシリといってもいい。早い段階から住宅ゾーンと工業ゾーンが共存していたから、いまも往年の面影が点在しているのだろう。

「晴海フラッグ」(左)と晴海のタワマン群(右)

 といっても、そうした面影もまもなく消えてしまうのかもしれない。2020年頃にはもっと色濃かった晴海埠頭岸壁付近も、目下再開発の工事中。かつて、東京国際見本市会場(貿易センター)があった一帯は、巨大な煙突がシンボルの清掃工場、そしてオリンピックの選手村を経て晴海フラッグに衣替えを終えている。倉庫街・工業地帯としての晴海も虫の息、といったところだろうか。

 ちなみに、1962年に鉄道開業90周年を記念して見本市会場で行われた鉄道博覧会では、専用線を会場まで一時的に延伸、越中島を経由して多数の現役車両が送り込まれて展示されていた。そうしたことができるのも、すべて専用線のおかげ、ひいてはウォーターフロントが工業地帯だったおかげであった。

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 ともあれ、専用線の痕跡は、越中島から豊洲までのエリアには当時を彷彿とさせる形で残っている。が、それが豊洲、晴海へと渡ってゆくと、晴海橋梁や地面に埋まったレールを除けば、完全といっていいほど消え失せてしまった。

巨大貨物駅の専用線が設けられていた日の出・芝浦エリアは

 では、海を挟んだ向こう側、日の出・芝浦エリアはどうだろう。こちらにも、芝浦駅と汐留駅という巨大貨物駅を連絡するための専用線が設けられていた。その痕跡は、どれだけ残っているのだろうか。それを探すべく、豊洲からゆりかもめに乗ってお台場を一周、レインボーブリッジを渡って芝浦ふ頭駅で降りた。

ゆりかもめの芝浦ふ頭駅そばにはいまも倉庫が立ち並ぶ

 かつての専用線は、ちょうどゆりかもめの高架に沿うように走っていた。専用線があるくらいだから、芝浦ふ頭から日の出、竹芝あたりまでは、まったくの倉庫街。日の出埠頭は1926年から運用を始めた、東京港で最も古い埠頭だ。1941年には芝浦にも埠頭が設けられている。

 専用線が開業したのは、この間の1930年。新しい埠頭に接する芝浦駅が開業し、汐留貨物駅と芝浦駅を結ぶ目的で専用線が設けられた。

  開設当初の日の出埠頭は関東大震災の復興物資の水揚場、芝浦埠頭は軍事目的の色が濃く、東京港が本格的な港湾として形を整えたのは戦後になってからだ。つまり、専用線は東京港の歴史とまったくともに歩んできたといっていい。

 そんな芝浦、日の出、竹芝を歩く。日の出や竹芝はいまも旅客船のターミナルとしての機能を持つ。お台場路線のイメージが強いゆりかもめも、実はこれらの旅客船ターミナルへのアクセスを担っているというわけだ。芝浦と日の出の間の運河には、ゆりかもめよりもやや海沿いに専用線の橋台が残っていた。

倉庫街の隅に、鉄橋の橋台跡が......

 すぐ脇には倉庫が並び、いまもこの一帯は倉庫街。ゆりかもめや首都高の高架をくぐって内陸に歩を進めても倉庫が目立つ。東京港の中心機能はより南の大井埠頭などに移り、このあたりもだいぶマンションなどに変わってはいるものの、まだまだ港湾都市・東京の一面はこの町に見ることができる。倉庫を眺めながらいくつか運河を渡ってゆけば、山手線の田町駅も近い。