地球に暮らすあらゆる人々に向けられた教皇フランシスコの「回勅」

 教皇が発布する公式文書に「回勅(かいちょく)」というものがある。信仰や倫理に関して指針を与えるために教皇が全カトリック教会に向けて送付する公式書簡のことである。教皇フランシスコが最初に発布した回勅は、『信仰の光』(2014)というものであったが、これは、前任者のベネディクト16世が準備しつつも退位のため発表することができなかったものを、教皇フランシスコのもとで完成し発布したものとなっている。そのため、通常、教皇フランシスコ固有の精神が十全に発揮された最初の回勅は『ラウダート・シ――わたしたちの共通の家に対するケアについて』(2015)だとみなされている。

 ベネディクト16世が最初に発布した回勅は『神は愛』(2005)というものであり、二つ目の回勅は『希望による救い』(2007)であった。『ラウダート・シ』が環境問題をテーマとした回勅であったのに対し、ベネディクト16世による『神は愛』『希望による救い』と、教皇フランシスコの名のもとに発表された『信仰の光』は、「信仰」「希望」「愛」という、新約聖書以来キリスト教において最も重要とされる三つの中心概念――これらは中世の神学以来「対神徳(たいしんとく)」という名前で呼ばれてきた――をめぐるものであった。20世紀を代表する神学者の一人でもあったベネディクト16世(ヨゼフ・ラツィンガー)は、キリスト教の本質とは何かということを正面から浮き彫りにする文書を「回勅」として発布することのうちに自らの重要な使命を見て取っていた。まさに学者教皇としての面目躍如たるものがある。

 他方、教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』のテーマは環境問題という極めて実践的な問題であり、また、「キリスト教信仰」という枠組みを超えて多くの人に訴える訴求力を持ったものであった。通常、回勅の冒頭には、「キリスト教的愛について 司教、司祭、助祭、男女奉献生活者、そしてすべての信徒の皆様へ」といった宛て先が記されており(『神は愛』)、テーマによっては、「司教、司祭と助祭、修道者、信徒、そしてすべての善意の皆さんへ」というような仕方で「善意の皆さんへ」という文言が付け加えられることによって、カトリックの信徒以外の人々も宛て先となっていることが追加的な仕方で明示されることもある(ヨハネ・パウロ2世回勅『いのちの福音』)。

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嘆きの壁で祈るフランシスコ Israel Police, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

 これらと比べると、教皇フランシスコの回勅は極めて特異である。ベネディクト16世によって準備されていた『信仰の光』は、通例のように「信仰について 司教、司祭、助祭、男女奉献生活者、そしてすべての信徒の皆様へ」となっているが、『ラウダート・シ』の冒頭には、単に「わたしたちの共通の家に対するケアについて」とのみ書かれている。これは回勅としては極めて例外的なものである。宛て先が明示されていない、いや、カトリックかカトリックでないかという枠組みを超えて、地球に暮らすあらゆる人々が宛て先になっているのである。

 また、教皇フランシスコによる三つ目の回勅『兄弟の皆さん』においても「兄弟愛と社会的友愛について」とのみ書かれており、『ラウダート・シ』同様、特定の名宛人は挙げられていない。

 そして、この教皇フランシスコの二つの回勅のタイトルには、顕著な共通点がある。通常、回勅においては、本文冒頭のラテン語の二単語または三単語が正式なタイトルとなっている。たとえば、『神は愛』の公式のタイトルはDeus caritas est(デウス カリタス エスト)というラテン語であるが、これは、冒頭に引用されている「神は愛である」という新約聖書の「ヨハネの第一の手紙」第4章第16節の言葉なのである。また、『信仰の光』の公式のタイトルはLumen fidei(ルーメン フイデイ)というラテン語であるが、これは、「信仰の光(lumen fidei)――このことばによって、教会の伝統は、イエスがもたらした偉大なたまものを表します」という冒頭の一文の最初の二つの単語になっているのである。このように、通常、回勅の公式タイトルは、カトリック教会の公式言語であるラテン語になっている。

『ローマ教皇 伝統と革新のダイナミズム』(文春新書)

 他方、『ラウダート・シ』と『兄弟の皆さん』の公式のタイトルであるLaudato si'とFratelli tutti(フラデリ トウツデイ)は、いずれもイタリア語であるが、これは極めて例外的なことである。なぜイタリア語になっているかと言えば、どちらも、中世イタリアの聖人であったアッシジのフランシスコの言葉の引用となっているからである。すなわち、これらの回勅はどちらも、アッシジのフランシスコとは何者であったのか、そしてその精神はどのような仕方で現代に活かし直すことができるのか、というところから話が説き起こされているのである。『ラウダート・シ』に即して詳しく見てみよう。