料理上手な母親、婿養子の父親

 現在は東京都在住の工藤さんは、1972年に岩手県盛岡市に生まれ、母方の祖母、両親、3歳ちがいの妹の5人家族で育った。

 紙袋を作る会社で働く父親は婿養子だった。

「父は5男4女の9人きょうだいの四男でした。両親の馴れ初めは詳しくは知らないのですが、おそらく父方の祖父母の家はあまり裕福ではなかったため、祖父母は父を早く家から出したかったんでしょうね。母方の祖母が利用していた美容室のお客さん同士のつながりで、2歳年下の母との結婚の話がまとまったみたいなことを言っていました」

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 その時代としては珍しく、母方の祖母は結婚・出産後も働いていた。建設会社の寮母をしていた祖母は、工藤さんの母親が15歳くらいの頃に、祖父の女性問題がきっかけで離婚。母親と10歳の妹は最初、祖父に引き取られたが、生活は苦しく、電気やガスを止められたこともあったという。四畳一間で3人肩を寄せ合って暮らし、母親は高校に行きながらアルバイトで祖父を助け、妹の世話をした。

「おそらく祖父では娘2人を養えず、祖母が家を建てたことをきっかけに祖父と話し合い、祖母が引き取ることになったのだと思います」

 その後、母親の妹は結婚を機に家を出て行った。

「祖母は結構勝ち気な性格で、母との喧嘩が絶えませんでした。お金に細かく、僕に支払ったお年玉の金額を毎年メモしていて、『お前にいくらやったと思ってるんだ』みたいなことを言うので、小学生のとき言い争いをしました。そんな祖母ですし、住んでいる家も祖母が建てたものなので、父は居心地が良くなかったんでしょうね。寡黙な父は母との仲もあまり良くなく、僕が小さい頃からだんだん単身赴任のような形で東京で働くことが多くなっていきました。時々一緒に東京へ行って、2人で野球観戦をした記憶があります」

 父親が感じていた家庭の居心地の悪さは、工藤さんが語るエピソードからひしひしと伝わってくる。

現在の工藤広伸さん 本人提供

「僕が高校生になるまでは、父は僕と妹を連れて、毎週末父方の祖母の家に遊びに行っていました。やっぱり家にいたくなかったんでしょうね。子どもをダシにして自分の実家に帰って、ゆっくりしていたのだと思います」

 一方、母親は父親が勤める会社の仕事を内職で手伝いつつ、得意な料理の腕を活かして、祖母と同じく社員寮の寮母をしていた。

「母は、『盛岡にすごいうまい料理を作るおばさんがいる』って全国で評判になるほど料理が上手くて、僕は特にラーメンが好きでした。母のラーメンは肉や煮干し、野菜で出汁をとったシンプルなものですが、都内のラーメンを食べ歩くのが趣味な僕でも、悶絶するほどの美味しさでした」