今ある才能が新たな才能に音もなく食われていく世界では、立ち止まることは許されず、敗北に抗い続けなければならない。杉本さんはその過酷な静寂の中で三十年以上を生き残り、通算六百三十を超える勝利を手にしている。かつては負けた日の扇子を真っ二つにへし折っていたという。こちらが勝手に思い描いていた、負けても微笑んでいる好々爺然としたイメージと重ならないのは当然なのだ。だからこそ余計に、あの自虐という話法が読み手に迫ってくる。
奥深い森の住人でもある杉本さんが、なぜ自分を落としてまで、棋士の言葉を外に向けて翻訳しようと思ったのだろうか。
対談の中で杉本さんは言った。
「やはり私自身が藤井聡太八冠(二〇二三年に全八冠制覇を達成。現在は七冠)について取材を受けるようになってからです。昔は“7六歩は……”と符号を使いがちでしたが、今はなるべく分かりやすく伝えることを心掛けています」
慎重から積極的に、振り飛車から居飛車に
つまり、どこに行っても「藤井さんの師匠」と呼ばれるようになってから、自分が変わっていったという。確かに、本書の中には、そうした記述がいくつか見られる。
例えば、戦いの最中に自陣の守りを補強することから、「リフォーム」とあだ名され、手堅く慎重で知られていた杉本さんの棋風が、藤井さんの影響か、最近では積極的で大胆になってきたという。また、杉本さんは多数派への反骨心もあって、少数派の「振り飛車」という戦法にこだわってきたが、藤井さんが主流の「居飛車」しか用いないのを見て、近頃はどちらもやってみようか、という気になっているそうだ。
