なお、彼はチエとの間に11人の子を儲けて、セツは6人目に当たり(「亡き母を語る」)、戸籍簿と照合すれば、5人の子が夭折している。
セツの父で8代目、藩ではセレブの家柄
『列士録』によれば、初代の小泉弥右衛門は、本国近江(おうみ)、生国(しょうごく)(出生地)因幡(いなば)の侍である。はじめ、讃岐丸亀藩4万5千石の藩主である山崎虎之助(治頼(はるより))に仕え、家老を務めていた。しかし、明暦3年(1657)、虎之助が夭折し、嗣子なき故の除封となるに及んで江戸に出、翌年(万治元年)、出雲松平家の祖である直政に召し抱えられた。初めは使番(ばん)、後に20名の徒(かち)(足軽)を統率する者頭(ものがしら)を務めている。
その後の小泉家は、2代目弥右衛門が50人の本士を率いる番頭を務めて以来、代々、セツの父8代目弥右衛門に至るまで、一定期間、者頭ないしそれに準じた役職を務めた後、番頭に進んでおり、また、嫡子には家督相続と同時に、組外(くみはずれ)という格式が与えられている。この格式は、直接ほかの侍の采配下に入らないことを意味し、『雲藩職制』の編者が「一国中の貴族」と表現した、上士に限って与えられた待遇であった。
城下町の松江、セツの生家は武家屋敷
セツが生まれた小泉家の屋敷の位置は、ほぼ確定することができる。昔、家中屋敷の立ち並ぶ侍町の東隅に、要地を抑える目的で置かれた、家老大橋茂右衛門の例外的に広大な屋敷があった。その西側で米子橋を経て松江城へ向かう道へ進み、すぐに左折して左手3軒目が、往時の小泉家の屋敷であった。
同じ南田町に在住された角田喜代子さん(筆者の訪問時にご健在)が、子供の頃その屋敷の南隣に住み、祖母から「セツ夫人の生家」だったと聞き、また久しく残っていた門長屋をよく記憶しておられたが、その位置が、昨年(2024)出版された『小泉セツ ラフカディオ・ハーンの妻として生きて』所収の「松江城下絵図」(嘉永年間)で示され、「文久元年の松江城下図」(『城下町松江の今昔』所収)で、「小泉弥」と記されている屋敷の位置と正確に一致する。