そして、セツが生まれて24日目に当たる2月28日の夜、京橋から松江城の三の丸に通ずる広小路の両側に、家老をはじめとする出雲の侍たちは、皆、裃を着け無刀で、路上に積もる雪や泥土の中に土下座平伏し、当時満18歳の西園寺公望(さいおんじきんもち)が率いる官軍を迎えたのであった。うち並ぶ提灯に照らし
出された彼らの頭上には、冷たい雨が静かに降りしきっていた。
否応なしに東北での戊辰戦争に巻き込まれる
山陰道鎮撫使の官軍の松江城入りは、セツ誕生時の特殊な情勢を象徴する。ただし、戊辰戦争における松江藩の進退と運命は、ハーンも『東の国から』で語る会津藩の場合とは違って、やや複雑であった。
松江藩は王政復古の後、「宗支の礼は正しくし」と、一度佐幕の方針を家臣一同に示しながら、鳥羽・伏見の戦いの時を含めしばらく、将軍家に対する「孝敬」と朝廷に対する「忠勤」との間を揺れ動き、1月16日に至って「只管(ひたすら)勤王の外無之(ほかこれなし)」と藩の態度を確定したのである(内藤正中『島根県の歴史』等)。しかし、これを新政府は受け入れなかった。
さらに、3月初め官軍が松江を去った後、新政府から泉州堺の警備を命ぜられて、セツの父の小泉湊も加わった。続いては奥羽出兵の命に服し、明治改元(9月8日)後の10月5日、家老神谷兵庫の率いる出雲の侍たちは、錦(にしき)の御旗(みはた)を掲げて盛岡城下に入るのである(『松平定安公伝』)。
歴史家
1940年新潟市生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻、コロンビア大学のM.A.学位(修士号1974)、M.Ed.学位(1978)を取得。一時期会社員、前後して高等学校教諭(世界史担当)。著書に『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988年)、その改定版となる『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)、『A Walk in Kumamoto:The Life & Times of Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn’s Japanese Wife』(Global Books, 1997)、『わが東方見聞録―イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社)がある
