そして、明治8年(1875)に小泉湊が家禄を奉還した時の住所が、「南田町」と記されている(『島根県士族家禄奉還資金調』)ところから、まず、当の屋敷をセツの生家とみてよいと思われる。当の屋敷は『嘉永5年屋敷調』での記載から、西に向いた表の間口が17間2尺(32メートル)、奥行が33間(60メートル)もある、大きな屋敷であったことが知られる。

明治の新政府に組するか? 瀬戸際の松江藩

セツが生まれた時、松江城下は重苦しい空気に包まれていた。松江は過去200年余りの間、その藩主が、全国のおよそ300の諸大名の中でも、御家門の流れを汲み、とりわけ有力な「国持十八家」に数えられることを、誇りとしてきた。しかし、時はあたかも、その松江の誇らかな地位が失われ、また広く武士階級の消滅を運命づける、緊迫した事態にあったのである。

王政復古の大号令とともに新政府が樹立された後、官軍と幕府軍が京都郊外の鳥羽・伏見で戦い、幕府軍が致命的な敗北を喫したのは、ちょうど1カ月前のことであった。この天下の大局を決した戦いにおいて、松江藩は、いずれの側に就くべきかを決めかねる、極めて苦しい立場に立たされたのである。

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それというのも、山陰の地に位置する藩でありながら、家康の孫の松平直政が松江に封じられて以来、代々の藩主が、家紋を同じくする将軍家の有力な一門として、格別な名誉を与えられてきたからであった。そうした成り行きから、折しもセツの生まれた日には、松江藩を「鎮撫」する官軍の一隊が、松江進撃の本営と定めた鳥取の城下に進駐しつつあって、松江の侍たちは、これに対処する方策を必死に探っていたのである。

長州にも近く、藩主は松平家だが新政府に恭順

京都の新政府を連合して推し立てたのは、西国の有力な諸藩であり、その間にあって孤立無援に陥っていた松江藩の事態は、いかんともし難かった。遠く江戸にある将軍の城の陥落を待つまでもなく、松江は、天皇を戴く新政府に対して、ただひたすら恭順の意を示すほかに道はなかったのである。