痛い人と痛くない人の「間」にいるために
川上 痛みの不思議な点は、自分でいくら痛い思いをして、それを思い出すことはできても、もう感じることはできないことだと思います。私は胸腔にドレーンを入れたことがあるんですが、弩級の激痛でした。これは心臓に突き刺さっているに違いないと思ってナースコールを呼んで心電図をとってもらっても「異常ないです」と言うんです。心臓をものすごいノミか何かで、がつがつに削られているような痛みでした。
出産では、腹を何層にもわたって切ったのですが、あのときも視界が白くなって、音が鳴って感じられるくらいに痛かった。それでも、これらの痛みを覚えてはいるけれど、おなじように感じることはありません。
頭木 痛みを忘れてしまうのは不思議ですよね。忘れないと生きていけないからかもしれません。でも、トラウマのように残ってしまう「痛みの記憶」もあると思います。
あと、同じドレーンでも、腹部だとそこまで痛くないので、腹部のドレーンしか知らない人がお見舞いに行ったら、「ドレーンなんて大したことないでしょ」と言ってしまうかもしれませんよね。「自分の経験からはわからないことがある」ということは、わかっておきたいですね。
川上 一人の人間がどういう姿勢を取れば、痛い人と痛くない人の「間」にいられるのか。それはその人のスタンスの問題ではなくて、痛い人との関係の中に現れてくるものだと思うんです。痛い人にどう接するかと言うときに、自分の「真ん中」の状態が現れる。
私の知人で、良性ですが、脳に腫瘍ができる持病の人がいるんです。彼は数年に一度、頭蓋骨を開けて腫瘍を取るというハードな状況にいます。たとえば、私は彼に、最近偏頭痛が辛くて、とは言えない。痛み比べが悪手だ、何の解決にもならないということはわかっているのですが、礼儀とか配慮とか恥でもなくて、ただ「言えない」という気持ちが確かにあるんです。
頭木 そういう自然な気持ちは大切だと思います。ただ、骨折した人に、ねんざの痛みを語ってもいいのではないかとも思います。過敏性大腸炎の方が自分の辛さを語ってから、私に「あっ、すいません」と謝られることがあります。潰瘍性大腸炎のほうが大変なのに、ということなんですが、それはぜんぜん気にしなくていいのにと思います。上下関係を言い出すと、小さい苦痛は嘆けないことになってしまいますから。

