テンプレの言葉では語れないような状況に追い込まれたとき、なぜ一見、難解とされる文学こそが救いになるのだろうか。痛みと文学が交わる地平で、川上未映子さんと頭木弘樹さんが深く語り合う。
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同じ病室のおじさんに『カラマーゾフの兄弟』を貸したら…
頭木 私はもともと本を読まない人間でしたから、読まない人の気持ちがよくわかります。基本的に活字が好きではなくて、読むのが面倒です。今でも、三行くらいでもう力つきてやめてしまうことがあります。
でも、そういう「パスポートを持っていない人」にこそ、文学を読んでほしいんです。自分の体験や感情を表現するのに、手持ちにテンプレしかないと、辛くてどうしようもなくなってしまうことがあります。私自身がそうでした。
川上 でも、頭木さんはもともと17%の人なんじゃないかと思います。だからこそ、テンプレしかなかったら、辛いと思えたんじゃないでしょうか。入院しても、テンプレじゃないものを必要とする人はそんなに多くないんじゃないでしょうか。
頭木 私は83%のほうですよ。軽い病気の人はもちろんテンプレで大丈夫ですけど、長期入院の人はそうもいかないんです。最初は確かに、それまで通りの生活を送ろうとするものです。テレビを見て、新聞を読んで。でも、だんだん辛くなってくるんです。自分と社会とのつながりが薄くなっていくことに、かえって気づかされるからです。どんどん追い詰められて、でもどうしていいかわからない。ベッドの上で、苦悩と自分のふたりきり状態ですよ。
こんなこともありました。私がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいたら、向かいのおじさんが「おまえ、難病で大変なのに、よくそんなものが読めるな」って声をかけてきたんです。そのおじさんは、まさにテレビも新聞も苦しくなっているときでした。「いや、病気で大変だからこそ、ハマるんですよ」って答えたら、意外そうで、「じゃあ、ちょっと貸してみろよ」と。
川上 本当ですか。
頭木 本当なんですよ。私はもう中巻まで進んでいたから、上巻を貸しました。すぐ返してくるかなと思っていたら、そのおじさんもハマったんですよ。
川上 そのおじさんも、もともと、17%の魂を持っていたんじゃないですか。
頭木 いやあ、あのおじさんは絶対に違うと思いますよ。「ビジネス書しか読まない。それも、二ページに一つはイラストがなきゃダメだ」って言ってましたから。
