闘病で味わってきた様々な痛みに、当事者研究の視点で向き合ってきた頭木弘樹さんの話題の新刊『痛いところから見えるもの』。痛みのどん底で文学は本当に役に立つのか? 自身の治療で壮絶な痛みを経験した川上未映子さんと、とことん語った。
(※本稿は、「文學界」2025年10月号から一部抜粋したものです)
◆◆◆◆
「病気で得た感動は偽物です」
川上 2023年の9月に、朝日新聞のデジタル版で頭木さんのインタビューを拝読しました。当時は母が、がんの治療をしていて、私もこの時期に手術を受けていたんです。まさに「痛い人」「痛い人のそばにいる人」の当事者でした。
病気にもし目標があるとすれば、それは「治す」とか「痛みをとる」ことになると思います。でも、それはいずれできなくなるものでもあるし、現にできない状態にある人もいらっしゃいます。頭ではわかっていたんですが、実際に当事者になって初めて考えることがたくさんありました。
「なんとかなる」という言葉は、あるレベルでは事実かもしれないけれど、でも常に生き残っている人たちから発せられる実感ですよね。人は必ず、なんとかならなくなるものです。
頭木さんは記事の中で、病気になったけれど立ち直ったという物語が必要とされていること、それが感動を呼びやすいことを指摘しておられます。そしてインタビュアーが「そこで得た感動は本物なのでしょうか」と尋ねると、「偽物です」とはっきりおっしゃった。非常に痺れる言葉でした。
明けない夜はない、病の「向こう」があると私たちはつい考えてしまいますが、同時に、頭木さんの指摘する視点を持たなくてはならないと強く思いました。倒れたままでい続ける人、そうするしかない人がいるということを忘れてはならないと思います。
頭木 綺麗な話に持っていこうとする「圧」が世の中にはありますが、綺麗な話というのは、救われるようで、救われないんですよね。
川上 ハッピーエンドにすがるしかない、という気持ちもわかりますが、希望にすがれないほどに現実が厳しい場合もある。ハッピーエンドの物語を受けとるにも、少し余裕がないと無理な気がする。
頭木さんはこのたび刊行される『痛いところから見えるもの』で「立ち直ることができずに、ずっと絶望状態が続くことがある。しかし、倒れたままでも生きていかなければならない。そういうときに読むことをすすめているのだ」と書かれています。頭木さんが引用している作品たちも、ある意味では希望のベクトルを向いているといえるものもあります。でも、その道筋が違うのでしょうね。病から学んだとか、背中を押された、気づきを得たとかではないところを通じて希望に向かっていく。
ただ私は疑わしくも思っているんです。母が辛かったとき、私が病気だったとき、物語全般に接することができず。役に立つか立たないかでいえば、まったくでした。
