頭木 綺麗な物語を必要としているのは、当事者ではなく、まだ悲惨なことになる前の人たちでしょうね。いつか自分にも何か起きるかもしれないという不安はあるので、起きても大丈夫という物語があると安心できる。だから、当事者に対して、そういう物語を紡ぐように求める。蚕に綺麗な糸を吐けと言うように。

 倒れたままのこともあるというのは、そういう人たちにとっては不愉快です。肩を貸してやると言っても、なお立ちあがらなければ、非難さえします。健常者にとっては、倒れたままじゃ生きていても意味がないんです。でも、すでに倒れたままの者にとっては、それでもサバイバルしていくしかありません。

©AFLO

 私は倒れたままで生きる上で、文学がとても救いになりました。だから、文学、文学者にはとても感謝しています。それだけに、辛かったとき、病気だったとき、文学がいっさい役に立たなかったと、まさに文学の書き手である川上さんがおっしゃるのは、とても興味深いです。もう少しくわしくお聞かせいただけますか。

ADVERTISEMENT

生きている人が書くフィクションは読む気になれなかった

川上 私自身の手術も――これはまた別の機会に詳しく話せたらと思うのですが、わりとシリアスな状況に迫られたものだったんですが、手術前にとった行動は、物の整理でした。いつか読むだろうと思っていた本も、あと何度かは読むかなと思った本も、もう私には必要ないと思い、たくさん処分しました。それでも手元に残した本はありますし、頭木さんのインタビューの「偽物です」という言葉には揺さぶられましたし、確かに痛い時、辛い時に言葉は必要だったのかもしれない。でも、それは同じ辛さから出てきている言葉で、治らない側にいた私たちを肯定してくれる言葉だったからだと思います。

 元気な人、もっと言えば生きている人が書いている、とくに人が亡くなるフィクションは読む気持ちになれなかった。カフカと色川武大、あるいはすでに母を亡くしている人のエッセイやインタビューしか、読む気力がありませんでした。これまで散々、自分は人の生き死にについて好き勝手に書いておいて、いざとなったらこんなことを思うんだなと自分にうんざりしました。そういえば頭木さんがこの本で引用されている作家も、死んでいる方が多いですね。

頭木 それは私も全く同じことを思いました。さらに言えば、作家が死んでから書いた作品というものがあれば、それが読みたいなと。

川上 どんな作品も不十分なわけですね。生きている時に書いているから。

頭木 生きている人って、みんな超ラッキーなんですよね。『劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル』という映画の中に、色々な超能力者が自分の能力を自慢するシーンがあります。そこである人が「自分は今までの人生で一度も死んだことがない」って言うんですね。ギャグなんだけど、私は本当に痺れてしまった。

 考えてみればすごいことですが、世の中にはそういう人しか存在しない。だから、自分だけは大丈夫というような、安易な希望を語る作品も多いんだと思います。(中略)