極限下で文学のサードアイが開く!?
川上 本当の極限に置かれたら、もれなく文学のサードアイが開くようなことが起こりえるんでしょうか。
頭木 現実に起こったんですよ、そういうことが。そのおじさんがハマったんで、驚いたのは六人部屋のほかの四人です。あのおじさんでさえハマるんなら、読んでみたいということになって、私は『罪と罰』とかドストエフスキーの他の本も持って来ていたので、みんなに貸しました。そうしたら、全員がハマったんですよ。看護師さんが入ってきて、全員がドストエフスキーを読んでいるんで、「この部屋は何!」と驚いていました。
川上 すごい文学空間ですね。頭木さんは、人が極限状態に置かれたら、必ず文学を必要とすると考えておられるんですね。
頭木 それは確信がありますね。なにしろ、目の当たりにしましたから。その後、ほかの部屋からもドストエフスキーを借りに来るようになって、あとから「あのとき読めてほんとうによかった」という手紙をもらったりもしました。
私が「文学紹介者」という変な肩書を使っているのは、この体験からなんです。追い詰められても、「じゃあ、ドストエフスキーを読もう」とは思わないですよね。でも、ドストエフスキーを読めば、すごく救われるわけです。つまり、誰か紹介する人が必要なんです。そういう人になろうと思ったんです。
エンデの言葉――“ユーモアとはその状況に向き合う姿勢”
川上 ドストエフスキーが流行ったというのがまた……。例えばここで流行った本が『置かれた場所で咲きなさい』とかなら、ありうるかもしれないなあと思えるだろうけれど。
頭木 私自身、まだ健康だったときに、ドストエフスキーを読もうとしたことがありましたが、『カラマーゾフの兄弟』の冒頭の「作者の言葉」でもう挫折しました。「こんなおよそ興味のない、要領を得ぬ説明」とドストエフスキー自身が書いているんですが、「わかってるんなら、書くなよ!」と思いましたね。ところが病気になってから読むと、あのくどくどした文章がものすごくいいんですよ。これは、自分もそうだからなんです。病気について、お金について、将来について、考えてもどうしようもないことについて、牛の反芻みたいにくどくど考えてしまうんで。
川上 ミヒャエル・エンデが『エンデのラスト・トーク』で、次のように言っていました。「ユーモアとはおふざけではないし、おふざけや陽気さの一種でもない、ユーモアとはひとつの世界観なのだ」。人は必ず失敗をするし、挫折する。致命的な困難に必ず直面する。病はもちろん、死に別れもそのような困難ですね。
そしてエンデは、ユーモアとはその状況に向き合う姿勢のことだと言うんです。ユーモアというのが、どちらに転ぶかわからない状態にいるときに、どうあれるかという姿勢のことであるとすれば、何らかのユーモアにふれたり学んだりするために、もしかしたら文学が必要なのかもとも思うのですが。
