永井 非常に感じます。以前、哲学者の森岡正博さんにも「あなたが書かなかった言葉はどこに行くの?」と問われたことがあります。そう、選ばれなかった、私が残せなかった言葉は確かに無数にある。
だからこそ、私は哲学対話を必ず複数人、多くの場合は10~20人で行っています。私が忘れても、語り手本人が忘れても、そこにいる誰かは絶対に覚えているだろうという希望を託して。いま私は、写真家の八木咲さんと一緒に「せんそうってプロジェクト」で、参加者が戦争について見聞きしてきたことを大事な語りとして、みんなで聞く取り組みを続けています。語られたことは、その場にいる誰かが必ず覚えている。だから、本として書き残すだけでなく、そうした場を作ることも「保存」のひとつの形かもしれないと思っています。
スケザネさんも書評家として、ある本を批評するときに、語りきれない本の可能性、そういう「残ってしまった」部分をどう感じていますか。
「反響板」「アンプ」としての書評家の役割
スケザネ 僕は書評をよく音楽にたとえるんですが、書評家は「反響板」や「アンプ」であるべきだと思っています。元の本という「音」を、書評家(僕)という反響板を通して読者に紹介する。間に反響板が入るので、ただの伝言ゲームではなく、特定の言葉を強調・増幅したり、僕自身の特性によって多少音が歪んだりもする。そこで心掛けておくべきなのは、自分がどういう反響板なのか? つまり、どんな音を好み、どんな音に気づきにくいのかという、自身の「いびつさ」を自覚しておくことだと思います。
いまはChatGPTの進化がすごいですから、一冊の本のあらすじを過不足なくまとめるのはAIのほうが上手い可能性があります(厳密に言うとまだまだ下手ですが時間の問題でしょう)。でも僕は自分という「人間のいびつさ」――これまでの読書歴や人生経験やいろいろなものを駆使して、独自の反響をさせたいんです。ああ、スケザネはここを一番面白がって、ここにめちゃくちゃ感動したんだな、と。
僕が好きな評論家の小林秀雄は、骨董について書いている「真贋」という文章の中で「では美は信用であるか。そうである」(『モオツァルト・無常という事』)と記しています。信用に足る目利きが「これは美しい」と言ったら、その言葉はものすごく重みがあるわけです。
本においていうなら、例えば吉田修一の『国宝』を歌舞伎役者ならどう読むか、あるいは医療小説の現場描写に現役のナースならどんな感想を抱くのかとか、すごく面白いでしょう。つまり誰が反響板になるか、掛け算になるかということが、僕は書評の非常に面白い要素の一つだと思う。
その上で、先輩の書評家・倉本さおりさんに言われた「書評は分業制だからね」という言葉を支えにしています。僕が紹介しきれなかった部分や、僕とは違う読み方は、他の誰かが必ずやってくれる。だから、僕は僕という人間のいびつさを知った上で、その特性を最大限に生かして言葉を選び、本という音を響かせているという感覚です。
永井 AI時代に人間のいびつさこそが価値になるというのは面白い指摘ですね。いまのスケザネさんの話と私の対話への向き合い方にはかなり共通するものを感じていて、言葉を探し、耕しているとき、「一人でやっている気にならないこと」ってすごく大事なことだと思います。最良のかたちで書くという志をもちながらも、そこで取りこぼすものは必ずある。でも誰かが必ず拾ってくれることを信じることが大切だと感じています。
(その2へつづく)

