哲学対話の実践や批評の現場からはどんな言葉の風景が見えるのだろう。新著『さみしくてごめん』を上梓した作家・永井玲衣さんと、往復書簡『晴れ姿の言葉たち』(宮田愛萌さんとの共著)が話題の書評家・スケザネさんによる、初の公開対談が実現した。
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私たちのまわりに政治的、社会的でないもは何一つない
スケザネ 永井さんの新刊『さみしくてごめん』、大変興味深く拝読しました。特に冒頭の日記のパートが印象的です。一般的な日記は「今日こんなことがあった」という過去形の記述になりがちなのに対し、永井さんの日記は「~が好きだ」というような“現在形”の文章が多い。これは、特定の日にしか通用しない出来事ではなく、いつでも成り立つ普遍性を意識したのでしょうか。
永井 そうですね。この日記は6年ほどにわたって断続的に書いているのですが、コロナ前に始まり、コロナ禍を経て、ロシアのウクライナ侵攻があった頃に終わっています。多くの日記は「今日は〇〇があった」というDoが書かれますが、「何を忘れたくないのか」を中心にして、ある意味、これが2022年の出来事であっても、1982年の出来事であっても同じように読める普遍的な言葉を残そうと試みたんです。だから、コロナという言葉も意図的に使いませんでした。
スケザネ 確かに文章というものは、何を描いても、その時代の時間性が張り付きがちです。たとえば僕らは1940年代の小説を読むともう何を読んでも戦争の影がちらついてしまうし、作者がどんな影響を受けたのか気になってしまう。でも実際は、その時代を象徴する戦争にしたって、書き手の当事者性にはかなりの濃淡があります。
永井 だから当初ある意味、時代性みたいなものを一旦置いておいて、いつの時代にも通用する言葉で、そのときの感情を保存しておきたかった。
でも、それは幻想でしたね。その時代にあったことから逃れることはできなくて、私たちは否応なくこの社会構造の中に生きていることを思い知らされたのがウクライナ戦争でした。こと表現の世界では、政治的なもの、社会的なものは切り分けておいたほうがよいという風潮が強いですが、実際に私たちのまわりをよく見れば、政治的でないもの、社会的でないものなんて何一つない。
スケザネ 世界のどこかで起きている出来事と常に隣り合わせにある、という感覚に近いのでしょうか。
永井 そう思います。どんな表現も、文学のようなフィクションでも社会から完全に独立しては存在し得ません。例えば石原慎太郎の『太陽の季節』を読んでも、ヒロインが子どもの頃に恋をした従兄の兄弟は「二人とも戦地で殺されていた」とさらりと書かれている。これは作者が意図して戦場の死を書きたかったとかではなく、社会にビルトインされた現実なわけです。同時代の政治的・社会的なものを意識的に「漂白」しようとすることの不自然さに気づかされました。
あとがきにも書きましたが、本書は4年間塩漬けにしていたんですね。主にコロナ禍において対話の場をほとんど開くことのできなかった時期に書いた試みを世に出してよいものか躊躇していたので。

