「言語化」の必要性が声高に叫ばれ、誰もがわかりやすく説得力をもって語ることを求められる時代、作家・永井玲衣さんと書評家・スケザネさんは「いかに語るか」から「いかに聞くか」へと視点を転換させる。対話の本質へと立ち返る特別トークイベント。

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スケザネさん(左)、永井玲衣さん(右)

「言語化」が社会人の必須スキルとされる時代

スケザネ 近年、「言語化」という言葉が流行っていますね。三省堂の「今年の新語2024」にも入っていましたし、ニュースサイトなどでも役立つスキルとしてよく見ます。僕も言葉で仕事をしているので、その重要性は理解しつつも、「端的にシャープに言葉で伝えられる」ことが社会人の必須スキルであるかのような扱いに、強い違和感を覚えています。

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永井 「言語化」は、私が意識的に使わない言葉の一つですね。

スケザネ やはりそうなんですね。人は言語を発するとき、脳で認識したことからつむいでいると思うのですが、最近読んだある本によると、皮膚は脳にいちいち指令をもらわずとも自分で怪我の状況とかを判断して治癒ができるそうです。「脳の知覚の外側」で、皮膚は活発に自分でがんばっている。あるいは人間の耳には聴こえない範囲ですが、鳴っていたほうがなんとなく気持ちがいい倍音などもよく知られています。

 つまり、身体が無数のものを感知し受け取っているなかで、脳が認識できる領域はけっこうあやふやで、限られている。そのあやふやなものを使ってしか僕らは言語化ができないわけです。

永井 いまの話に通じるかわからないですが、記者さんが哲学対話を記事化するときによく、「どんな話が出ましたか」「何がわかりましたか」と訊かれます。たとえば「さびしさ」がテーマならどんな意見が交わされたのか、コンテンツが問われる。実際の対話の場では「本当にさびしさって消えないよね…」という話だったのですが、それを言葉化しても「しょぼい話」になってしまうわけです。

 私は常々、対話は表現だと思っていて、言語外の表現が無数にあります。ある人は「さびしさとは何か」という問いの前で、100秒くらい沈黙したあとに、目をつむって「消えないんです」と言いました。聞き手もその間そわそわとして身体をさすったりしながら聞いている。そういう無数の身体的な表現の先に、ハイライトとして言葉が浮き出てくる。

 本書には、ある参加者が語った「さみしさとは、決して共有できない、わたしだけのもの」というキラーフレーズを記しているので、そこが好きと言ってくださる方が多くいますが、そこにいたるまでに無数の身体的なプロセスを経ています。

 さらに言うと、こういう印象的な言葉も、当人が「考えてしゃべった」というよりは「思わず言っちゃった」という感じのことが多くあるんです。しばしば「自分でも何言っているかわからないのですが…」「自分はこんなことを考えていたんだって後から気づきました」と事後的に認識されるような言葉です。

永井玲衣さん

「言語化」というと、まるで自分でシャープに言葉をコントロールして、めちゃいいこと言ったぞ、みたいなニュアンスがありますが(笑)、哲学対話の場ではそうではない言葉があふれています。

スケザネ 言葉にするときって、どうしても時間性や場の空気は捨象されがちです。先ほど100秒の沈黙の話が出ましたが、リアルに100秒一緒にいたあとに受け止める言葉の重みと、文章の記述で読むのとではやっぱり体験として異なります。

 自分の心の中にあった言葉がぽんと出てくるというよりは、言葉が先に出てきても「あっ、これが私の言いたかった言葉なんだ」と気づくことのほうが多いんですね。