沈黙を聞くことが失われゆく社会

永井 そうです。私は対話の場で、「この場では、よく聞くという約束をしましょう」と言ってからスタートしています。「相手の言葉も聞く、自分の声も聞く、沈黙も聞きましょう」と。沈黙もまた表現ですから。

 私は広島の被爆を体験された方々の手記を大量に読んでいた時期があるのですが、国からの要請で何万人もの被爆者が書いた文章が記録として残っています。自分の生まれから何ページにもわたってぎっしり書いている方もいれば、いかに核兵器に対して怒りをもっているかを書いている方もいる。その中に、たった一行だけ「この苦しみをお助けください」と記された文章がありました。

 まさしくこれは余白であり、沈黙です。その人にとっての絶対的に必然の語りであって、その一言を書くまでにどれほどの沈黙があったのかと、感に打たれます。

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スケザネ 沈黙を聞く大切さをうかがってふと思い出したのが、恋愛問題で悩んでいた小林秀雄が河上徹太郎の家にやってきて、ずっと黙っていて1、2時間したら帰っていったというエピソードです。そのことを振り返って河上は、「沈黙にも相手が要る」と書いているんです(「友情と人嫌ひ」 『私の詩と真実』所収)。

スケザネさん

永井 まさに沈黙が沈黙になるには、聞き手が必要です。いまや社会の中で沈黙を聞くことがどんどん乏しくなっていることに危機感を覚えてもいます。だから私は、対話を「話し合い」とは言い換えずに、対話=「聞き合い」と言うようにしています。

 学校教育の場でありがちなのは、「黙っていたら何もわからないぞ」「伝わるように言葉にしよう」という風潮で、言葉にしないと「何も考えていない」と見なされてしまう。「伝わるように上手く言えよ」という学校やビジネスシーンで求められる言語化は、文学者が言葉をたぐり寄せて何かを言葉にしていくこととはかなり違うことが起きている気もします。

語り手に「わかりやすさ」を強要する圧力

スケザネ 穂村弘さんや大江健三郎に向かって、「言語化うまいっすね」なんて言う人いないですからね(笑)。

 詰まるところ、昨今の「言語化」ブームは、発信する側にウェイトを置きすぎていると思います。いかに効果的に発信してバズるか、いかに多くの人に刺さるパンチラインにするか、という発信者の論理です。

永井 それは裏返せば、社会が語り手に「わかりやすさ」を強要する圧力とも言えます。たとえば、社会的な声を上げている人に向かって、「そんな言い方じゃ伝わらない」みたいな言い方がよくされますよね。あるいは、震災や戦争といった強い暴力を経験した人の語りは、あちこち話が飛んだりしてわかりづらいことがよくありますが、言葉をなんとか絞り出そうとしている人たちに向かって、私たちの社会は平気で「もっとわかりやすく話せ」と要求する。

 これは、“もっといい言語化があるだろう”という「呪い」です。でもここで私達の社会が問うべきは、いかに上手く言語化するのかという発信者の責任や技術ではなく、「なぜ私たちはこんなにも人の話を聞くことができないのか」という、聞き手側の問題です。そこを骨抜きにしたまま「言語化、言語化」と言っていると非常におかしなことになってしまう。

永井玲衣さん