誰かの言葉に耳を澄ませるのは“骨の折れる行為”

スケザネ 同感です。村上春樹原作の映画『ドライブ・マイ・カー』に、日本人と韓国人の俳優が、通訳を介してゆっくりと食事をするシーンがあります。一人が話し、通訳が訳し、相手が聞く。その繰り返しで、非常にテンポが悪い。でも、本来のコミュニケーションって、本来それくらい手間のかかる「面倒」なものだな、と痛感しました。

 あるいは柳美里さんの小説『JR上野駅公園口』で描かれるホームレスの方々の語りは、本当になにを言っているのかよくわからない。でも、誰かの言葉に耳を澄ませるというのは、それくらい骨の折れる行為であるということを再確認させてくれる小説です。

 そうした面倒くささを引き受けることこそが、「聞く」行為の根源にはある。

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永井 以前、ハンセン病療養所の入所者が書かれた詩集のイベントに行ったとき、ある詩の意味が難しいなと感じていたら、ふと編集者の方が「でも詩を読むのって時間がかかるから」と言ったんです。その言葉にハッとさせられました。本を読む行為は他者の声に耳を澄ますことですが、一篇の詩を読むのは、何年もかかることだってある。数年かけて出会い直してやっとわかることもある。

 他者の声を聞くということはそれくらいスパンの長いものなのに、私たちの社会はそれを忘れてしまっているのかもしれません。

スケザネ そういう対話の根源的なあり方を考えると、これはどれだけAIが賢く、流暢になっても人間にとって代わることはないとも感じます。

永井 「ChatGPTと対話はできますか」ってよく尋ねられるのですが、私ははっきりと「できません」と答えています。私が試みたい対話は、AIとは絶対にできない。なぜなら、私にとって対話とは、他者との「信頼を作る」行為そのものですから。

 現代社会において、他者とはどこか競争相手であり、脅威の対象として立ち現れます。傷つけるかもしれないし、傷つけられるかもしれないというリスクを互いに引き受けながら、それでも同じ場に留まり、言葉を交わしてみようとすることに対話の重みを感じます。対話とは決して無菌室のような安心・安全な場ではない。緊張するし、居心地の悪い思いをすることだってあります。

 でもその先に、「なんだ、話せるじゃん」「この社会はまだ生きるに値するじゃん」という信頼が生まれてくる。これは人間同士でしかできない営みです。

スケザネ 今日は、対話という身体的な時間の重みを私たちの手に取り戻すための視点を様々な角度からうかがえ、非常に面白かったです。ありがとうございました。

永井 こちらこそありがとうございました。

(Naked Loft YOKOHAMAにて)

「さみしくてごめん」
「晴れ姿の言葉たち」

さみしくてごめん

永井玲衣

大和書房

2025年6月18日 発売

晴れ姿の言葉たち

宮田 愛萌 ,渡辺祐真(スケザネ)

文藝春秋

2025年6月25日 発売

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