なぜ人はエッセイにお金を払うのだろう?

スケザネ でもそんな試みも含んでの魅力だと思いますが、永井さんの文章を読むと、知識として何かが残るというよりは、まるで森林浴をした後のような気持ち――ある種の深い「体験」を得た感覚になります。

 ここで一つの問いが生じるのですが、あえて言葉を選ばずにいうと「なぜ人はエッセイにお金を払っているんだろうか?」と。とくに他人の日記に対して、なぜお金を払って読みたいのか、実のところよくわからないのです。

スケザネさん

永井 すごくよい問いですね。それは、スケザネさんの往復書簡『晴れ姿の言葉たち』にも同じことが言えますよね。なぜ他人の手紙を読むのにお金を払うのか? と(笑)。

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 それに関して言うと、往復書簡のお相手の宮田愛萌さんが印象的な指摘をされていましたね。スケザネさんに宛てた手紙なのに、もしかしたら「他の方の心にもこの言葉たちのなにかが届いてしまう可能性がある」ことについて、なんとなく香水のようではないか。「私は私のために素敵な香水をつけていたのに、他の人から『良い匂いですね』と言われたような」と――。考えてみれば、これはとても不思議なことですね。

スケザネ 本当にそうです。

永井 スケザネさんの問いに対して、自分なりの答えを出すならば、エッセイは、私にとって前著のタイトル通り“世界の適切な保存”なんです。私は対話の活動を13年ほど続けてきて、ほぼ毎日、現場で様々な人々の声や語りに出会っています。それらの言葉が「なかったこと」になって忘れられてしまうのがすごく怖い。だから、それを書き留めて保存したい、世界に「ここにあるぞ」と示しておきたいという強い思いがあります。

無名の人々の言葉が哲学者の言葉と同じように輝くとき

スケザネ なるほど。永井さんの本では、哲学対話の場で出会う無名の人々の言葉が、サルトルやカントといった哲学者の言葉と全く区別なく、同じような輝きをもって大切なものとして扱われている面白さがあります。それは、普通の人の言葉が、永井さんの中に質量のある言葉としてズシッと残ったからだと思います。

 哲学対話という場には、たとえば「死についてはこう向き合いましょう」という答えを知るためにみんな来ているわけではないですよね? 対話のプロセスの時間そのものに価値を感じているはず。

 ネットで映画を2倍速で見たら、内容はわかっても2時間の体験の重みは消えさり薄まった感動しか得られないものですが、みなで集まって90分哲学対話をするからには、現場でしか得られない「体験の重み」がリアルな手触りとしてあるからなのでしょうか。

永井 まさしくそうで、みんな体験の時間に身を浸したいんです。哲学対話の場では、他者の言葉に出会います。体験や記憶や感情が豊かに含まれた他者の言葉に、否応なく出会うんです。勇気を出して絞り出された参加者の声をじっくり聞いていると、正直すごい本を何冊も読んだあとのような身体感覚になります。

 これは「人はなぜお金を払ってエッセイを読むのだろう」という問いに通じる話だと思うのですが、身体と時間を使って他者の言葉に出会うとき、人は心や考えを動かすことのできる幅が広がるんですよね。私自身、無名の人々の話の中に、10年、20年忘れられない言葉を見出してきました。

永井玲衣さん

 以前、ある困難な状況に置かれたある参加者の方が、「普通って何だろう」という問いに対して、自身のことを「流れる川の真ん中に突き刺さった“棒杭”だ」と表現しました。周りが就職や結婚といったステージをどんどん進んでいくのを、自分はずっとずっと川の真ん中でそれを見ているようだ、と。

 それはもう一篇の詩であり、一冊の本でした。私にとって、書店に並ぶ偉大な哲学者たちの言葉に勝るとも劣らない価値ある言葉です。そんな無名の語りをどうすれば保存できるかと考えて行き着いた方法が、エッセイに書くことだったんです。

スケザネ いろいろなことが腑に落ちました。ここでひとつ踏み込んだ質問をさせていただくと、人々の対話の中から「保存する」言葉を選ぶ行為は、その一方で、選ばれなかった無数の言葉があるわけですよね。そこに対する後ろめたさを感じたりはしますか?