――「秘策」ですか!?
塩田:打ち合わせのために担当デスクが私の住む京都に来ることになった日、彼が新幹線に乗ったタイミングを見計らってプロローグの「宣戦布告」の原稿を送ったんです。そう、考える時間を与えない作戦です(笑)。新幹線の中で読んでもらい、面白いと思ってもらえれば許可が出るだろうと。断られてしまったら長年の構想もおじゃんになりますから、私なりにものすごく気を遣って事を進めました。実際、担当は京都に着くやいなや「面白い、やりましょう」と言っていましたね。まんまと策中に……(笑)。
「記者としてはどっちが正しかったのか」葛藤は今も
――週刊文春で週刊誌のあり方を書くのは非常に勇気がいることだったと思います。塩田さんご自身は、雑誌ジャーナリズムについてどのようにお考えですか?
塩田:「神戸新聞」の記者時代、東京のメディアは大きな事件が起こるとやってきて、現場を荒らしに荒らして帰っていくというイメージがありました。
ただ、ひとつ忘れられない出来事があるんです。とある殺人事件が起き、被害者の方のお葬式へ取材に行った時のことです。旦那さんは号泣していて、ご親族からは「いい加減にしてくれ」と言われる。われわれ記者も心が痛み、地元の記者クラブで相談し、お葬式の取材は中止することにしました。
でも、1社だけ来ていた週刊誌の記者は何を言われてもずっと写真を撮り続けていた。その姿に私は「人の心がないのか」と思っていました。ところが後日、その旦那さんが逮捕されたんです。
――驚きの展開ですね。
塩田:取材を打ち切った私たちの記事には、旦那さんの写真がない。でも、取材を続けた記者は写真を持っている。軽々に答えは出せないけれど、記者としてはどちらが正しかったのかと今でも考えます。そこには、記者クラブメディア特有の脆弱性と週刊誌ジャーナリズムの過剰さがあると思います。
――本作では、1980年代の写真週刊誌と現代のSNSが結びついた時の威力も重要な要素として描かれています。この2つの関係性をどうご覧になっていますか?
塩田:80年代には、「1枚の写真が何よりも事実を物語る」というキャッチコピーで、ビジュアル主体の雑誌が出てきました。本来、ニュースは活字の方がより深いところまで書けるはずなのに、1枚の写真と短い文章という非常に分かりやすく刺激的なものが読まれるようになった。この写真週刊誌こそ、現代のSNS発の情報拡散の原型ではないかと思っているんです。
