誹謗中傷をテーマにした長編小説『踊りつかれて』。作中で、週刊誌報道やSNS上の情報が”暴力”へと転じる社会を描いた塩田さんが「週刊文春」編集長に「どうしても聞きたいこと」とは。(全3回の2回目/最初から読む

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水たまりからナイアガラへ

 塩田 今日はせっかくの機会なので、どうしても聞きたいことがあるんです。

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 竹田 何でも聞いてください。

 塩田 『踊りつかれて』の取材で何人かの弁護士の先生に聞いて、結局よくわからなかったのが「準公人」「みなし公人」の概念なんです。もともと1976年の「月刊ペン」事件の判例で、私人の生活上の行状を伝える記事であっても、その人の社会的影響力が大きい場合には報道に公益性がある、つまり、名誉毀損に当たらない場合があるとしたわけですね。この判例が一つの基準となって、芸能人も影響力があるから「準公人」である、ゆえにプライベートなことを記事にしても許容されると理解されている。

 竹田 はい。

©文藝春秋

 塩田 この判例、僕は、紙という物理的制限がある時代には有効だったと思うんです。つまり、記事が出ても、紙媒体は時間の経過とともに消えていき、やがて忘れられる。書かれた当人もネタにしたり、一時のつまずきとして、再びやり直すことができる。

 ところが今は、記事が一瞬で拡散し、デジタル・タトゥーとして記録され、無限に再生される。かつては水たまりに足を突っ込んじゃったくらいのダメージだったのが、いきなりナイアガラに放り込まれた状態になるわけです。記事によって受ける影響がまったく変わっているのに、「準公人」の範囲は変わらないまま。これでいいのか、というのが僕の疑問です。弁護士の先生に聞いても、名誉毀損の原告側に立つのか被告側に立つのかで意見が変わる。そろそろこの「準公人」の概念をアップデートしないといけないのではないか。

 報じる側の意識はどうですか。僕は文春の人を知っているので、「追いつめてやろう」「辞めさせよう」と思って書いているのではないことはわかってるつもりです。でも、実際に記事が出ると書かれた人が追いつめられていくケースがある。こういう現状は、記者のみなさんも怖いんじゃないかと思うんですが、報じる側の意識の変化ってありますか。